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シアワセ

カジュ通信2006年夏号より

 

「幸せ」の定義はなんでしょう、と時々思うことがあります。
ダライ・ラマ14世は、「人生の最大の目的は幸せになることである」とおっしゃっていますが、仏教的見地からいえば、生・老・病・死に満ちるこの世をサバイブしなければならないことを200も承知の方がこのセリフをおっしゃるのですから、考えてしまいますねえ。
最近、幸せになるのも、「能力」なのではないか、と思うことがあります。幸せは、誰かが運んできてくれるもの、与えられるもの、はたまた運であるように、私たちは思い込んでいますが、実は、内なるものなのであって、それを取りだし、自分で育み、鍛えていくものなのではないでしょうか。

だからこそ、「幸」の字、一本少ないと「辛」いになるわけで、この一本がまさにキーワードですね。
幸い、好きなことを仕事にして生きておりますが、これは、逆の見方をすれば、私が止まれば全てが止まるということで、何をするにも、何を決めるにも、どんな結果を得ようと、ひとつも人のせいにはできない、うまく行ったときは、人のおかげ。「一本」は、付いたり消えたり、、、。

だからこそ、幸せを感じたときは、大声で「幸せだあ」と叫ぶようにしているのですけど、これが実は、日本社会では、うまくないんです。そう、日本は、幸せそうな人に冷たい社会です。(笑)
そう、妬み(ねたみ)というやっかいなモノが襲ってくる!(女へんに石、、、すごい字、、、!)
これがはびこりますと、奇妙な“平等を大事にする意識”が蔓延し、例えば小学校で「負ける子がかわいそうだから徒競走はやめましょう」みたいなことが起こる。
う~ん、人が輝く姿を見て、いっしょに喜べない人に幸せはあるのかい?

全て思い通りに生きているように見える人とそうでない人、、、人生に用意されている障害の数はさしてかわらないのではないでしょうか。いえむしろ、幸せそうな人の方が、克服した障害が多いのでは?

争いは、他人とするものではなく、「幸」と「辛」の間を揺れ動く、自分の心に向けられるものですよね。
人と人の争いから、国と国の諍いに至るまで、その原因は、全て、この辺にあるのではないでしょうか。
人を幸せにしてナンボの職にある身としましては、これは一生を通じたテーマでありまする。ピース。

 たなか牧子

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