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往復書簡 (2) 田村竜士さんからエサシトモコさん 2004年

昔の『往復書簡』を掘り起こし作業中です。これは2回目のものです。

【テーマ】 表現ということ

創作活動をされている何某様

「作品を見ればその人がわかる」といいます。

私は「からだ」を通じてその人を観て、感じて、指で触れ、人の内からの<力>を引き出し活性化していくことを生業としています。

この過程は、そのままその方を「わかる」過程である、ともいえるかと思います。

たとえば絵を観て悲しみを感じ、音楽を聴いて躍動を覚え、彫刻を観て力が奮い立つなどは、ある意味作者とこちら側との共鳴があるゆえ起きる現象なのでしょうか?

このような「共鳴」が起きる時、「わかる」という感覚が内面にわき上がるのだろうかと思っています。

何かを表現するとは、「心」によって「心」を対象として行われる、あるいは対象すらないのかもしれませんが、決められた形式のなかにあるのでなくそこからはみでたところに本質があるように感じますが、いかがですか?

どこか不自由な、どこか不完全な、そうしたものであるから人の「心」は時には激しく、時にはゆるやかに動かされるのかな?

田村竜士

 

田村様

お手紙ありがとうございます。

はじめましてなのにもかかわらず、このお手紙はまさしく私宛?と思いお返事を書くことにしました。私は基本的には彫刻家です。主に木と漆それに布や自然物や最近は画像なども使って表現活動をしています。工芸から現代美術まで、素材と表現媒体はその都度異なります。

「作品を観ればそのひとがわかる」という言葉は私のようないい加減な美術家にとっては、なんとも恐ろしい話です。これを否定はしませんが、作品の何を観るかは、観る側の人となりにも同じ重さがあるように思いますが、いかがなものでしょうか?田村さんのお言葉を繰り返すようですが、まさしく作品は自分の思いを込めるだけでなく、見る人の思いを共感、共鳴、共振させてこそ意味があると思っています。

それは、田村さんが人の体の内側から力を引き出す行為と、似通ったものである・・と考えます。もし、ここに違いがあるとしたらそれは田村さんが「からだ」、私が「こころ」を扱うといったところでしょうか?

では、そんなに簡単に「からだ」と「こころ」とを区別できるのか、区別して良いのか。もちろん、入り口は区別してもいいと思います。美術なんて、所詮頭でこねくり回したものだと言われてしまえばその通りかもしれません。しかし、どんなに頭でこねくり回したとしてもそれは人間の「頭」という「からだ」のなせる技だという言い訳もできます。そう言った意味では音楽は美術よりもっと「からだ」に近いものだと思います。聴く、歌う、奏でる、踊る・・・とても魅力的です。では、美術にはまったくその要素が無いのか?というとそんなことはないと思うのです。

色彩やタッチ、手触り、彫る、塗る、描くなどの行為、どれをとっても、そこには必ず「からだ」との対話があります。動的な行為だけでなく、伝統的な技術を使った細かい細工であってもです。そして、その上に「こころ」という得体の知れないそして最も面白くもあり奥深く繊細な一面を反映させる。だから、役に立たないと思いつつも作品作りをやめられないのだと思います。

最近、映像、画像、CGなど「手触り」を感じない美術作品が増えて来ました。視線、視点というところにスポットをあてるとそうなっていくのは自然かもしれませんし、私も作品の一部に画像などを用いることが良くあります。たしかにバーチャルと呼ばれる世界には、実際の「からだ」には行き着けない世界が有るのかもしれません。そういった意味では、音楽、美術、文学、舞台などが「アート(人為)」と呼ばれることも頷けてくるところです。しかし世代の問題かもしれませんが、私はどうしても実際に「からだ」が行い、感じ、「からだ」で考えることに興味があります。体が滅びてしまえばおしまいだ・・・と思うのです。

まだまだ便せんが許せばこの手紙を書き続けたいのですが、そろそろでしょうか。最後に一つだけ、最近、「立体を彫るのは難しいがどうしたらいいか?」という質問を受けました。その時の答えを書いて終わりにします。「面で捉えずに、手の中に包み込むように丸く丸く彫っていったらそのうち出来ますよ」。と答えました。面で表面を追っていくと「中心」がない形になってしまう場合がある。丸く彫ることは「へた」にも通じるが中心がある形になると思うのです。 と、人に口で教えられるほど自分はたいした作品は作っていません。無い「あたま」で色々こねくりまわしています。

次の作品は「変化する肉体」、オタマジャクシの変態などがテーマです。「いったいどんな気持ちなんだろう?急に脚が生える時って」という作品です。私はそんなバカなところで作品を作っているわけです。お恥ずかしい。長くなりましたが、今回はこの辺で失礼します。ではまた、田村さんもおからだ大切に。そのうちどこかでお会いできるのを夢みております。

エサシトモコ

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