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2013年3月

往復書簡(5) 波多圭以子さんから磯辺朋子さん

テーマ 【直感】

磯辺朋子様

最初にお目にかかってからもう随分と長い月日が経ちますが、このようにお手紙を差し上げるのは初めてですね。

先ずは、歌集の出版、おめでとうございます。

そして、もうすぐお母様になられるとのこと、重ねてお喜び申し上げます。

「短歌」というものをこんなに身近に感じたことがなく、また、作者の内面深くまっすぐに表された作品には私は怖いと思うほど心動かされました。心情を私自身の上に重ね合わせたりして、私も内なる自分と向き合うことになりました。

私は時々自分の内側と対話します。

何かを決断する時、困った時、迷った時、心静かに自分と向き合うおのずと浮き出る答えのようなものを感じることがあります。

「直感」とでもいうのでしょうか・・・・。

ふりかえると私はここまで直感と感覚を頼りに生きてきたように思います。受験や仕事、結婚、子育て・・・・・・。もちろん努力もしてきましたがここ一番はやっぱり直感で道を決めてきているなぁと思います。一見何の苦労もなくスムーズに思える人生を「棚ぼた人生だね」なんて言う人もいますが、「棚ぼた」にも悩みはありまして、迷ったりあがいたり、曖昧な気持ちで過ごす時間の方が長いかもしれません。

直感というとピンと張った細いもののようなイメージを持ちます。私の場合は何というか・・・・内側から湧く、太くてゆるぎない感覚なのです。地球の外側にある宇宙と同じ位大きな宇宙を私の内側にも感じていて、日常の出来事を受け止めたら、内側に投げかけ、何か答えが返ってくるのを待つのです。すぐ解ることもあれば、なかなか解らないこともありますが、心の声を聴くことは、精神的なバランスを取ることでもあり、私にとってはとても大切なものになっています。

磯辺さんは、歌を詠まれる時、どんなふうに直感をもたれますか?

また、新しい命が誕生しようとする今、何かを感じていらっしゃいますか?

波多圭以子

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往復書簡(4)  川崎智子さんから波多圭以子さん   2005年

テーマ【想像】

拝啓

波多圭以子様

娘がいつもレッスンを楽しみにしています。そしてこの度は三女の倫子ちゃん誕生を心からお祝い申し上げます。とても勝手な気持ちではありますが、子供にとって妊婦さんが身近にいて赤ちゃんが誕生するという過程を見ることは、何とも大切なことだと思われるのです。自分が経験させてあげられないので、心密かにとても感謝しております。寛子ちゃんの時もそうでしたが、娘が自分の事のように喜んでいた様子が微笑ましくありました。

さて今回、往復書簡という場でお手紙を差し上げることになりました。今の先生からはとても素敵なお話が聞けそうな気がしています。題目は“イマジネーション”です。どうぞよろしくお願いします。私の想像力はとても身近なところにあり、そこにあるという意識の世界を発見し、気づくところから始まるようです。たとえば風景などは、その場所を切り取って入り込んでしまうことがあります。近所に車も通らず人の往来もない道があり、その道は小高い山の上を通っていて木々が道幅2~3m程の道の両側にこんもりと生い茂っています。途中は広い竹林が下の道の方からその道まで続いていて、その入り口の道を横切ってロープが張られ、それを伝って竹の子の番犬が猛烈な勢いで出ては吠えたてていましたが、最近はロープだけがそのままでその犬は見かけなくなりました・・・。右手にもう誰も訪ねてきそうにない古い墓石がある敷地を見て、ところどころ近くの民家の人が耕した畑を通り、その先はさらに木々に囲まれた影の濃い道へと続きます。この道に入るたび、自由に呼吸できる喜びと同時に何だか謎めいている感じを覚えてとても大好きな場所になりました。そして私達が子供の頃、そんな想像を膨らませる景色や道や場所が何処にでもあったような気がします。見えないものが見えるようなそんな雰囲気があり、遊びの中でもそんな体験を覚えるような場所にアンテナを張っていたあの頃・・・。今ではこの場所でさえ切り取ったようにポッカリと残された場所です。残念。

少なからず美術家は想像する術(すべ)を持ち合わせ、様々な事物から覚醒する領域を切り取りそれぞれの方法で表現されているのではないでしょうか。音楽の世界にあっても、ベートーヴェンがウィーンの森を彷徨うことで「田園」という作品を作曲しました。音楽は体験的に想像を演出してくれるとても身近な方法のような気がします。11月末の日曜日のN響アワーで、宇宙飛行士の毛利衛さんが宇宙から見た地球にどんな音楽のイマジネーションを持ったかという内容で番組が進められていました。その日私は地方のホテルで、朝早く家を出て飛行機に乗ったこともあり早々とベッドの中にいて虚ろではありましたが、宇宙から見た白とブルーのそれは美しい地球とバッハの曲が織りなす画面を見て、理由もなくああ謙虚にならなければと思ったのでした。先生はどんな時にどんな想いでどんな音楽が聞こえていらっしゃるのでしょうか?

敬具

川崎智子

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往復書簡(3) エサシトモコさんから川崎智子さん 2004

テーマ【希望】

拝啓

まだ見ぬ往復書簡のお相手の方へ

最近一つの展覧会を主催しました。外国から女性作家を招待しての展示です。私も一人の作家として作品を作り発表する生活をすると同時に、曲がりなりにも子どもを育てている最中です。もちろん、家族など周囲の協力がなければ、この仕事は為し得ないことは十分承知です。さてその招待した作家は60歳を越えているのですが、映像作品を用いたいわゆる「現代美術」と呼ばれる中の「コンセプチュアルアート」・・・・つまり、考え方を重視した美術表現をしています。

その彼女が展示の中に用いた「HOPE-希望」という詩に、ある美しい秋の風景を眺めながら、今まさに死なんとしている老女と交わす会話が出てきます。「あなたは若くて希望がある、あなたには明日がある、あなたにはこの風景をもっともっと感激してみられる時間がある。でも、私にはもう何もない・・・。(一部抜粋、要約)」と老女は言うのです。

もちろん、今の私にはこんな心境は分かりません、まだ若干〇代ですから。わかるといったらウソになる。私には20代30代のころからくらべれば「希望」は半分が半分になり、そのまた半分になったとしても、ほんのささやかなものであったとしても・・・・私はまだ「希望」を持っていると信じています。

そう考えるうちに気づいたのですが、子どもの頃は本当に「希望」がいっぱいだった・・・。実は自分は、具体的な「希望」などなにも無い、むしろ醒めた目で大人や社会を見ている、そんな子どもだったと思いこんでいました。

しかし、そうではなかったことがこの詩を通して、彼女の作品を見ているうちに分かってきたのです。「己の限界を知らないこと、己の何たるかを知らないこと」これこそが人が「希望」と呼ぶものの近くに在る・・・ということなのではないか。人生において、身につけていくものは形を変えて表現にとりこまれ、作品の幅が広がっていくことは確かです。しかし、続けていくうちにいつしか自分に対する「驚き」や「発見」も薄らいでしまうように感じられる。子どものように、いつも新鮮な気持ちでいたい・・・と思っても、すべてが見慣れた風景に思えてしまう。まるで、生きるということの意味を失ってしまう気さえする。

「希望」を持つということは変化することを恐れず、また変化できることが前提の状態にある、ということではないでしょうか?

ただ一ついえるのは、半減が繰り返したとされてもゼロにはなりたくない、マイナスにもなりたくない・・・人からみたら見えないほどの「希望」であっても。それは自分にとっては「希望」と呼べるものだからです。だから、私は「美術家」という、具体的な目的の見えにくい仕事を続けているのかも知れません。それは常に感じ、考え、変化することを前提にした仕事であり、私の思うところの「希望」に通じているから・・・・。長くなりましたが、どなたか是非お返事ください。できれば、子育てをとおして子どもから感じる「希望」、今の時代の「希望」のありか、ご自身が日常に於いて感じる「希望」ということについて。

敬具

エサシトモコ

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往復書簡 (2) 田村竜士さんからエサシトモコさん 2004年

昔の『往復書簡』を掘り起こし作業中です。これは2回目のものです。

【テーマ】 表現ということ

創作活動をされている何某様

「作品を見ればその人がわかる」といいます。

私は「からだ」を通じてその人を観て、感じて、指で触れ、人の内からの<力>を引き出し活性化していくことを生業としています。

この過程は、そのままその方を「わかる」過程である、ともいえるかと思います。

たとえば絵を観て悲しみを感じ、音楽を聴いて躍動を覚え、彫刻を観て力が奮い立つなどは、ある意味作者とこちら側との共鳴があるゆえ起きる現象なのでしょうか?

このような「共鳴」が起きる時、「わかる」という感覚が内面にわき上がるのだろうかと思っています。

何かを表現するとは、「心」によって「心」を対象として行われる、あるいは対象すらないのかもしれませんが、決められた形式のなかにあるのでなくそこからはみでたところに本質があるように感じますが、いかがですか?

どこか不自由な、どこか不完全な、そうしたものであるから人の「心」は時には激しく、時にはゆるやかに動かされるのかな?

田村竜士

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