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往復書簡(8) 石田人巳さんから稲垣麻由美さん 2006年

テーマ【アンテナ】

稲垣 麻由美様

先日は久しぶりの再会でしたね。全くの音信不通だったというわけではありませんが、あのように長くお話したのは、7年ぶりだったでしょうか?見かけはお変わりなさそうでも、それだけの月日が経っていれば、当然、いろいろとその間にあったに違いないのに、私ときたら、昔の稲垣さんのイメージをそのまま引きずっていて、しかも「あなたのことはわかっているわ。」みたいに話してしまいましたね。ちょっと反省しています。

そもそも稲垣さんとはカジュで知り合いましたよね。お互い、何かに引き寄せられるようにして。その後、稲垣さんはカジュを通り過ぎ、私は夫の転勤で日本を離れました。

結婚前、私は小さな編集事務所でアシスタントとして働いていました。時はバブル経済の絶頂期。事務所の ボスは、世界中の文化、芸術、イベント情報を網羅した情報誌を作るという夢を抱く、その当時は青年実業家でた。(成功していればヒルズ族の先駆者になってたかもしれなかった・・・・)海外旅行者もどんどん増え続け、リピーターが喜びそうなロンドンやNYのミュージカル情報、美術展のスケジュールなどを、私は西麻布の事務所にこもり、日々追っていたのでした。

そんなことをしながら、ふと自分は、自国の文化をどのくらい知っているのだろうか?という青臭い疑問を抱くようになると同時に、何か新しい文化が生まれる現場に立ち会ってみたいものだと思うようになりました。

そう思ったからといって、すぐに行動に移すような性格ではないので、いつものように心のどこかに≪思い≫を引っ掛けてのらりくらりしておりました。そうこうしながら、小唄のお師匠さんの所に出入りしてお茶を濁すなんてこともしました。

誰にだって胸の奥に、答えの出ない問いや、密やかな望みや、そのほかもろもろの≪思い≫が何かあることでしょう。いつの間にか消え去るものもあれば、とりついて離れないものもあり、悩みもがいてみたり、大事に育ててみたり。そんな状態を、ある小説家は“静かな情熱”と呼び、別の小説家は“井戸掘り”のメタファーで表現しています。そして時にそれは、ちゃんとアンテナを張り出し、肝心なことを受信してくれることもあるのです。あたかも偶然を装うこともあります。私のアンテナは主人に似て怠け者ですが、カジュのことはちゃんと受信してくれたのです。他にも人や本やマスコミで発信される言葉などに出会い、「ああ、これだったのか」と思う瞬間が訪れるのです。「人生長生きするもんだ」とはこのことがあるからなのですよね。

稲垣さん、お会いしなかった、この7、8年間にあなたのアンテナはどんなことを受信しましたか? もちろん、今、聞かせていただける部分だけで結構です。外気に触れると台無しになってしまう、熟成途中のものもあるでしょうから。

カジュ通信編集スタッフ 石田 人巳

石田 人巳様

お手紙ありがとうございます。

ほんと先日は久しぶりにお話できましたね。でも7年ぶりなんて感じはちっともしませんでした。石田さんの鎌倉時間を感じさせてくれる独特のテンポが健在だったからかしら(これ、私にとっては最大級のほめ言葉ですよ。誤解なさらないでね!)。私は石田さんと紡ぐ時間が心地よく、普段心の奥底にしまいこんでいる想いを堰を切ったよう話していたのでした。

私のここ数年・・・。そうですね、遠くを見ずに足元にあることにきちんと向き合って過ごしていれば、気がつけば一番行きたかった遠くの場所にたどりつけるものなんだな、っていうのが私の思いです。アンテナはいつも自分の心に。正直に心の声に従っていれば自然といい方向に向くんだなって。突然ヘンですよね。ごめんなさい。私が鎌倉に引っ越してきた10年近く前のことから話始めてもよろしいでしょうか。先日も話せなかった想い。ちょっと長くなりそうですが、お付き合いくださいね。

そう、私は引っ越してきてすぐカジュに足を運びました。その前に1年ほど暮らした千葉で知り合った尊敬する愛しき友人に「鎌倉に住むなあら、まずは“たなか牧子”に会いに行くべし」と言われたからです。そして、おそらく多くの人がそうであるように、一瞬にしてこのカジュという場所に、たなか牧子という人に強烈に惹かれ、魅せられ、気が付けばカジュ創世期の活発なマグマの中にいたのです。でも、正直言って、カジュは私にとっては非常に居心地の悪い場所でした。理由は簡単です。私にはその頃、自分を語れるものが何もなかったからです。ここは様々なアーティストが集う場所。作家でもなく、過去に華々しい経歴もなく、ふたりの小さな子どもを抱え、家・スーパー・公園をぐるぐる廻るただの主婦には、「あなたは何をしている人?」と出会いの最初に尋ねられる質問がとても嫌いで。なんとも居心地の悪さを抱えながらカジュ通信のお手伝いをしたり、牧子パワーの中であれよあれよと舞い、映画『アベックモンマリ』in鎌倉の上映会の司会をやったり・・・。

でも、そんな「私なんて・・・」ともがく“井戸掘り”の日々の中で、カジュとは別のフィールドで、子どもを通して知り合った仲間と鎌倉FMで『子育て情報番組』を制作するようになったり、子育て情報誌を発行したり、様々な講座を企画するようになったり。「こんな情報が欲しい、こんな番組があればいいのに、こんな講座があれば参加してみたい」そんな当事者ならではの想いをひとつひとつ「無いなら作っちゃえ!」と形にしていった日々。今になって振り返ってみると、小さな子どもを抱え、ボランティアでなぜあんなにパワフルに動けたのか自分でも不思議です。いきなり鎌倉FMに企画書を持ち込んだ主婦たち。あ~なんて恐れ知らずな(笑)。

(ちなみに私もバブル絶頂期の就職組。大手企業が両手を広げてさあどこでもいらっしゃいという時代に、大手シンクタンクを蹴ってベンチャー企業に身を投じた変わり者です。あの頃はほんと世の中ナメテました・・・すみません)。そんな活動を夢中で重ねる中で、いつしか、誰かに会い、そこで感じたことを文章にすることを仕事にしたいと思うようになっていきました。そして、たくさんの出会いの中でその夢が少しずつ叶っていったのです。大手出版社に勤めていたわけでもない人間が、なんとかライターの仕事ができるようになったのは、ただひとえにあたたかく手を差し伸べ、引っ張ってくださる方とのご縁に恵まれたから。まだまだ納得のいく文章も書けず、これもまたもがく日々なのですが、苦しくとも辛いとか嫌だと思ったことはなく、原稿用紙に向かうワクワク感はぶれたことがないので本当にありがたいことだと思っています。

遠くを見て誰かを羨ましがっている時は何も見えなかったけれど、自分の足元に目をむけ身近な心躍ることを続けていると、自分の心地よい立ち位置がわかるようになったり、神様がいいご縁を運んで来てくださったりするんですね。必要と思って突き動かされることって、すごく大事。40を前にしたイイ歳のおばさんが、今さら語ることではないことはよくよくわかっています。「こんなこと20代はじめにわかっとけよ!」ってね。でも、もがき、遠回りし、歳を重ねたからこそ深く感じられることもたくさんあるわけでして。だからって今、カジュに行って何かを語れるようになったか、というとそれはありません。相変わらず何も語れないけれど、語れるようにならなければ、と思っていた必死な自分がいなくなったというのでしょうか。

実は私は今、そう遠くないうちにアメリカのセドナという街に行きたいと思っています。ネイティブアメリカンが聖地として崇めてきた、不思議な力を宿しているといわれる場所。今も世界中から様々なアーティストが集まってくる場所。(カジュもちょっとそんな場所ですよね)。なぜか、突き動かされるように行ってみたいと思うのです。それがなぜなのか、そこに立ってみればわかるように行ってみたいと思うのです。それがなぜなのか、そこに立ってみればわかるような気がしています。そう、“静かな情熱”を持って家族にも内緒で計画中です。ねぇ、良かったら石田さんも一緒に行きませんか?石田さんのアンテナがうまく反応してくれたらぜひ。きっと楽しい旅になると思うんだけどな。

稲垣 麻由美

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