往復書簡(7) 島津健さんから石田人巳さん
ちょっとお休みしていた「往復書簡」の昔の手紙の掘り起こし作業を再開します。数年前のものでも久しぶりに読み返すと、また新たな発見があって面白いものです。7回目は2005年秋冬号のものです。
【テーマ】 やせ我慢
まだ見ぬ鎌倉人のあなたへ
最近、地方都市へ行ったことありますか?どこに行っても県道沿いのロードサイドビジネス中心の消費社会構造が出来上がりつつあります。家電量販店にレンタルビデオ店にファミレスに100円ショップ。便利で良いが、あえて旧鎌倉を選んで移住した私たち夫婦には、他人事ながら素直に喜べない光景です。車で乗り付けることが出来るチェーン店のメニューはすべてセントラルキッチンで調理され、優等生的な出来ではあるものの何かひとつ物足りない。それに比べ、鎌倉で誇れるオーナーシップのある商店は、玉石混合あれど個性がキラリ光るお店も多く、店主とお話をしたり、ブラブラと買い物をする楽しい一時を、観光客にも生活者にも与えてくれています。こうした根強く自主独立経営を貫く旧鎌倉のパパママストアを大事に守り育てていくためにも、個人的には、地方の県道にはびこるこのようなロードサイド型大型店が鎌倉に増えないことを願っています。
もちろん、TSUTAYAが24時間営業していたら・・・・DVDが好きなだけ見れてよいし、ヤマダ電機があれば・・・パソコンの備品など何でも揃い便利なのだけれど、何故か旧鎌倉にはそういうお店が来て欲しく無いと思うのです。現在も細々と生き残っているパパママストアが消滅してしまうのは問題だし、夜中までネオンの明かりが煌々と点いていたら、鎌倉特有の夜の暗さが失われてしまうのも惜しい。それに何と言っても、建物の大きさや存在感は最悪とも言えます。
「鎌倉らしいと思うものは守り、鎌倉らしくないものは排除する。」といえば潔いが、「本当はのどから手が出るほど欲しいのだけれど、それによって失うもの(=「鎌倉らしさ」)が大きいので我慢する。」というのが本音かもしれません。そうしてきたことで、現在の鎌倉の街の雰囲気は保たれているのではないかと思ったりします。鎌倉に住むことは「やせ我慢の連続」だと誰かが書いた文章を読んだことがありますが、谷戸の湿気やムカデとの戦い、階段100段のアプローチなど、都会人では考えられない暮らしぶりをしている人が結構多いのには驚きます。鎌倉移住の先輩達が、せっかく痩せ我慢して受け入れを拒否してきたものを、我々の世代で簡単に受け入れて良い筈はありません。近道のため路地を抜けようと、逆にカフェやお店で油を売ってしまうなんてユルリとした鎌倉の暮らしぶりを維持するためにも、これからもパソコン用品は横浜まで電車で買いに行くし、DVDや郵送レンタルで我慢することにします。
「痩せ我慢」すべきことは都市という共同体にもありますし、個人や家庭や組織にもあるでしょう。鎌倉の街にかぎらず、個人的なことでも地球規模の事でもかまいません。あなたが最近「痩せ我慢しよう」と思った事を教えてください。
島津 健
住みたい鎌倉・建て主塾 塾長 島津 健様
連載「往復書簡」の黒子として普段は立ち回っている石田です。今回はとうとう黒頭巾を取って、表舞台に出てきてしまいました。
あなたが最近「痩せ我慢しよう」と思った事は何かというお題をひと月前にいただきました。すぐに思いつかなかった私は、幾人かの知人にメールを送信しましたが、ほとんど即返信あり。自分に正直な人が多かったのでしょう。「したくない我慢はしないが、するべき我慢はする。よって心当たり無し。」 嗚呼。
ただ、むかしの職場の後輩が、『プライドとは、言い換えれば一種の「痩せ我慢」である。人は何故痩せ我慢をするのであろうか。我慢とは、本来、誰しもがあまりやりたくないものである。実際は自分勝手に我慢もしないで行動することは、恥ずかしいから我慢するのである。そこには、伝統とか因習、常識、良識などの織り成す躾の世界があったからである。』と言う文章をどこからか引っ張ってきてくれました。鰯の尻尾まで食べる意地あっても、プライドとなると、正面切って語るには、わが身の不足を思うばかり。
安易なネタ探しはやめて、自分の身近なところで誰かいないかと思いを巡らしました。(あ、これも近場からというラクな方法か・・・)そうだ、近所に、自分ひとりで石垣を積み直したおじさんがいるではないか。おそらく私の父と同じ昭和一桁生まれの人。父は三河の開拓農民でしたが、この二人に共通することは、「道具をつかえる器用な分厚い手と、道具よりも頑丈な体を持っていること」。額に汗して、ひとり石と格闘するその人の背中は、まさに昭和のお父さんの背中でした。工事といえば、すぐに機材を運び込んで、人は機械を動かし監視するだけというやり方を小ばかにしながら、わざわざ苦労する。ご自身は「うちはビンボーだからねえ仕方ないのよ。」とおっしゃるが、立派な男の痩せ我慢と言えませんでしょうか。
そのおじさんの家は二階堂川の川辺にあります。浄明寺の山から掘り出したという鎌倉石の古い石垣が、5月頃、市の護岸工事のため取り崩されました。漆喰などで接着されていなかった石は、ばらばらに積み上げられ、そしてその人は一人でそれを積み直しました。自転車でそばを通るたびに、帽子をかぶったおじさんが、のみをふるい、カチカチと石を削る音が聞こえました。「いつになるかわからないけれど、せっかくの石だからねえ。でも、この年になると、石が重くてね。一日にほんの少ししか進まないねえ。」小さい石でも一つが30キロ、大きいものだと7、80キロくらい。もともとは大工で石工ではないから、「素人仕事」だと言って苦笑されると、日焼けした顔の目元に掘り深くしわが刻まれるのが印象的でした。
今どき、石をひとつひとつ削りなおしては積み上げるという作業をしているのが珍しかったのか、通り行く人が足を止め、語りかける場面を何度見かけたことでしょう。
鎌倉らしい街並みを構成している古い家が垣根や庭木ごと壊されていくのを寂しい思いで眺める、塾長さんのいう移住者組の一人としては、おじさんの成されたことは、鎌倉の宝を残したともいえることだと思うのですが、ご本人は、ただただ昭和21年の出水があった時、もともとはサトイモ畑だった低い土地に建てた家が浸水し、大変な思いをしたことがあった。この辺は、いつ何時川があふれるかもしれない。そのための備えなのだと、あくまでも自分の生活は自分で守るという昭和の親父の台詞でした。
作業はひと月もふた月も続いたでしょうか。全長二十メートルほどの三段石垣ができあがりました。昔ながら石垣が蘇ったわけです。ひと夏を越して、今では古い苔の上に新しい苔が既に青々として、石同士もしっくりなじんで見えます。
おじさんの先代は大蔵に住む人だったそうで、元をたどると元禄時代にまで遡ることができるそうです。まさにこの地に連綿と血のつながりを持つ人です。私はこの地に来て10年。今までやってきたことは、いかにすればこの土地のものになれるか、その方法を模索するするという試みの連続だったかと思います。そのひとつが、自分の足跡をなるべく多くつけること。つまりは歩くこと。あ、そうか、これが私の痩せ我慢と言えそうです。
カジュ通信編集スタッフ 石田 人巳
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