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往復書簡(30) 石田人巳さんから田川陽子さんへ

【テーマ】 杉並木

田川陽子 様

 カジュの近所にあった杉の木が切られてしまいましたね、とうとう。

 やはり、今回の往復書簡は杉のことをきっかけに考えたことを田川さんに書きたいと思い、筆をとりました。いや、ノートパソコンを開きました。

 まず、私の育ったまちのことを書きます。私はトヨタ自動車の本社のある、愛知県豊田市に生まれ18歳までそこで過ごしました。まさに高度成長期の波に乗って、トヨタ自動車と豊田市は発展し、私の自宅の周りも、それはそれは劇的に変わっていきました。小学校にあがる前まで、家の周りは田んぼだらけで、夏は蛙の合唱を聞きながら眠ったものです。それがトヨタの工場が増えるたび、空き地は道路になり、住宅になり、隣の農家はトヨタの下請けの部品工場となり、おじさんの作業服は泥から油汚れへと変わりました。

 ですから、子供のころ見た風景は、今では何一つ残っていません。唯一残されているのはトヨタ本社の初代の社屋でしょうか。印象的だったのは正面にかかげられたTOYOTA MORTORS というアルファベットのロゴで、建物の脇で待機しているセンチュリーの黒塗りの車と遠い世界を見つめているようでした。

 新しいことはいいことだ、変化は善だ、と日本人はどんどんと変化していくことを好む民だと思います。けれども、いいものは古くてもいい、という審美眼も持ち合わせていると思っています。私は、家の真ん前が、原っぱから道路、住宅、マンションや店舗となっていったのを目の当たりにして育ちましたが、鎌倉のように、もう既に出来上がった町の落ち着きも好きです。が、ご存知のとおり、それは苔のようにデリケートで壊れやすく、日照時間、湿度、風向きなどの条件がぴたりとそろうと、それはそれは、宝石のような苔が生えるのですが、すこしでも条件が悪くなれば、緑の輝きも失せてしまうのに似ています。

 1年のうち盆、正月には祖父母の暮らす豊田に、子供たちを連れて帰ります。10年以上それを続けていると、何やら気づくこともあるらしく、ふとこの夏には車の中から街をながめながら、「豊田の町に(鎌倉のような)人気はないけれど、このたたずまいから、静かなエネルギーを感じる・・・」なんてうちの子が言ってました。

 新しいビルを建てる方が、古い建物を維持するよりうんとラクなような気がします。鎌倉の新市街と旧市街に同じ建築法を適用するのがおかしいとも思います。杉の木が消えてしまったと感傷的になって、ぼやくことしかできず、すみません。 

 しかしながら、古い街のよさをまた今日も実感しました。ひかなくなって十年以上経った三味線を知り合いの古道具屋さんが引き取ってくれました。おかしなことに、三味線をしまう木製ケースの方が本体よりも価値があるそうです。歩いていけるところに古道具屋さんがあるのって鎌倉ならではですね。とりとめもないことを書きました。お返事お待ちしています。

 石田 人巳  (カジュ・ボランティアスタッフ)

石田人巳 様

元治苑の杉並木が伐採される日、私は朝から暗い気持ちでため息ばかりついていました。すると電話が鳴りました。「落ち込んでいますか?」と問われ、「私たちはいったい何をしてきたんだろうと思う」と答えますと、「何もしないでこの日を迎えたら、もっときついと思いますよ。」と言われました。

その時私は気づいたのです。その方も同じ思いをしていること、それなのに私を気づかってくれていることに。その日、同じような気づかいの手紙がポストに入っていましたし、今石田さんからもこのようなお手紙をいただきました。うれしいことです。

石田さんの原風景ははるかに広がる田んぼ、というより、高度成長に伴う町の変貌そのものなのでしょうか? 日本人は確かに変化を好む民族かもしれません。高度成長は日本のあらゆる地域を大きく変えました。私は葉山で生まれ育ちましたが、葉山の町もずいぶん変わりました。海は変わらないと言いたいところですが、海でさえ波消しブロックや堤防、又裕次郎灯台なども建てられ、私が子供のころ日がな一日遊んでいた磯辺や浜とはずいぶん違っています。

風景は人々の暮らしと共に移り変わるものです。それでもなお守るべきもの、次世代へ伝えるべきものがあると思います。この美しい元治苑の景観を次世代に伝えたいとの素朴な思いで、「元治苑を守る会」を立ち上げたのですが、それはまさに村上春樹のいう「壁の前の無力な卵」の無謀な闘いでした。壁は業者だけではなく、法律、行政と、幾重にもありました。しかし無力な卵でも、卵は次々に生まれ、力や知恵を出し合うことができます。この活動を通じて地域に新しい絆が生まれたように思います。

風景という言葉は、そこにあるだけの景色に、風が、そしてそれを見る人の息づかいが付け加えられているのだと聞いたことがあります。この活動を通じて、元治苑で育ったという方、子供のころ元治苑の庭にはいりこんでつまみだされたという方など、さまざまな方の元治苑への思いを伺いました。元治苑は更地となり、今は発掘がおこなわれています。貴重な遺構や異物が出土すれば史跡指定される可能性も残されてはいますが、よしんばマンションが建てられたとしても、そこにわたる風の中に、元治苑のへの人々の思いや記憶がひそやかに残っていくのではないかと思います。

風景と共に人々の価値観も変わっていくと思います。私は古いものが好きで、古民家に暮らしていますが、私より上の世代より下の世代、特に若い方たちが興味を示すように感じています。古いものは年月を重ねることでしか出せない味わいがあり、それらを作った人々や使ってきた人々の思いが込められています。何を守り、何を変えていくのか、その判断は一人一人に任されているわけですが、それらの判断が集積して時代の流れを作り上げていくのでしょう。

「守る会」の活動はまだ終わってはいません。元治苑の正式な調査報告が年末に予定されています。その調査報告会、さらに発掘についての勉強会も行うつもりです。   

鎌倉の美しい街並みを守るために市民になにができるか、模索していきたいと思っています。

田川陽子 (元治苑を守る会 世話人) 

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