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2015年1月

伸び縮み歪み

「自在に伸びたり縮んだりするものなんだ?」と聞かれたら皆さんは何を思い浮かべますか? ゴム? 如意棒? 芝居の世界でそれを聞かれたら・・・答えは「時間」です。アインシュタインによれば、時間は伸び縮みするものだそうですが、ここで語ろうとしているのはそんな難しい話ではありません。

シェークスピア劇をご覧になったことがある方なら、こんな思いにとらわれたことがあるかもしれ ません。人の死の間際、それを看取る恋人が朗々とその人への愛の言葉を語り聞かせたり、逆に死に行く人が恨みつらみを延々と述べ立てたり・・・。この局面でこんな風に長々話せるはずがない、と。そう、現実の世界ではあり得ない時間の「伸び」がそこにあります。

逆に能の世界では、旅の僧が登場して、私は日向の国の某と名乗って数歩進み「阿漕ヶ浦に着きにけり」と言うと、宮崎から三重の阿漕ヶ浦まで一瞬で移動することができる。すなわち、都合の良い時間の「縮み」がそこにあるのです。

そもそも映画や小説と違って、一瞬の煌めきを描く芝居という芸術では、こんな風に都合よく時間が伸び縮みしてくれないと、とても見られたものにならないのです。数年前に流行った「24」のようなリアルタイムの進行方法は、芝居の世界ではできたとしてもせいぜい2時間が限界。逆に言うと、ここぞという一瞬を数分間に伸ばすことで、そのとてつもなく密な一瞬をたっぷりと描き出すことができるというのが、芝居の魅力でもあるわけです。

時間の伸縮に加えて、良い舞台にはごく希に空間的な歪みが発生することがあります。そういう芝居に出会えるのは一生に一度あるかないかとも言われていますが、幸いにして僕はかつて一度だけそれを観る機会に恵まれました。

忘れもしない今から10年ほど前のこと、鎌倉芸術館の大ホールに作られた仮設能舞台でそれは起こりました。現在最高の能役者とも評される関根祥人さんがシテ(主役)を務めた「道成寺」。にわかには信じがたいことが起こりました。彼が座ると床が沈み、彼が乱拍子を舞うと空間が波打った。僕はただただあっけにとられていました・・・。信じられないかもしれませんが、それはそこで実際に起こったことです。正確に言えば、そう錯覚したのです。「能を観るならシテを観よ」と言いますが、それほどの幻覚を引き起こした関根祥人さんという役者にただ敬服するとともに、時空間の伸び縮みを自在に現出せしめる芝居という芸術に、無限の可能性を感じた瞬間でありました。

紅月劇団 石倉正英 (2014年秋・冬号)

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写真家のテクニックによって引き起こされた「歪み」
(「椿説・石橋山の戦い」より Photo by Tanaka Makiko

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余白が無いからここには書けない

「フェルマーの最終定理」というのをご存知でしょうか?

1600年代に活躍していたフェルマーと言う数学者が「私はこの定理の驚くべき証明を得た。 しかし、余白が無いからここには書けない」とノートの片隅に書き残して死んでしまった。並の数学者ならまだしも、フェルマーの生前の功績を考えると、とても無視できない一言で、その後、多くの数学者が挑んでは散って行ったという、実にミステリアスな数学的難問のこと。
数学が好きな人はもちろんのこと、生理的嫌悪感を抱く人にとっても、何ともそそられる話ではないでしょうか。恐らく、もしそこにあったなら、これほどのミステリーにはならなかったであろう「余白」というものについて、今回は掘り下げてみたいと思います。

前回取り上げた「間」というものに通じる所の多い「余白」ですが、芝居においてもそれは とても重要な要素をなします。

もっとも端的なのはラストシーンですね。台詞で終わる、音楽で終わるを問わず、何らかの形で芝居が終わった直後に訪れる静寂は、お客さんが余韻を楽しむ、そして現実の世界に戻って行く重要な「余白」となります。

空間的な余白というものも面白い。常に多くの役者が均等に空間を埋めて進むシーンは息が詰まるもの。時に一カ所に寄ったりして、ぽっかり空間的余白を作ってやると、知らずふっと息が吐ける。これは日常の世界でもそうですよね。

昔、三島由紀夫の「サド侯爵夫人」という芝居をやった時、稽古はじめの直前に、一人の役者が出られないことになった。今から代役を捜すのか、と目の前が真っ暗になったその時、ふと「いっそのこと、主役を不在にしてみようか」と思い立った。周りの登場人物達はあたかも主役のルネが出ているかのように振る舞うが、ルネがいるはずの所にはぽっかりと穴があいたように何も無く、台詞も聞こえてこない。この時、実に奇妙な「余白」が舞台上に生まれました。もちろんこの実験的な芝居の賛否は割れましたが、僕はここに今の自分の芝居に至るとても重要な何かを見いだした気がしています。

2〜3年前、カジュのたなかさんとアコーディオン奏者の岩城里江子さんと3人で飲んでいたときのこと、何かの拍子に「余白」の話題になって、お二人からこんな素敵なお話を伺いました。「サルサの四拍目は休みの間ではなく、相手にどうぞ、という間なんです」(たなか氏)、「指揮者が四拍子の四拍目をテンポにとらわれず自由に振ると音楽が豊かになるんです」(岩城氏)。

余白だけに四拍目に何か通じるものがあるようです。

紅月劇団 石倉正英 (2014年夏号)

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役者が出を忘れた結果生じた微妙な「余白
(「くたばれ道元!」より Photo by Naoko Sekino)

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間の悪い芝居

「何とも間(ま)の悪い芝居だったねえ。」よくこんな風に言ったり、言われたりします。

この場合の「間」とは、主に台詞と台詞の間の時間を指すことが多い。今回はこの「間」について一考してみたいと思います。

小気味良いテンポでポンポン進んで行く会話というのは、観ていて何とも気持ちの良いものです。それが売りの劇団も多いですし、今の漫才やコントはとかくこの「間」の無い、スピーディなものが主流となっていますね。しかし、一方でそれは右から左、あまり心に残らない会話にもなりうる。お客さんの心に残るかどうか、それには色々な要素がありますが、最も大きな鍵は、台詞の「間」にあると僕は考えています。間って何でしょう?

イッセー尾形さんの一人芝居をご覧になったことがありますか? もしあれば正直にお答えいただきたい。それはとても間の悪い芝居ではありませんでしたか? そう、かく言う私も生で拝見した際、何とも気持ちの悪い間の長さを感じました。これについて彼はこんなことを言っています。「わざと不自然な間をとるのだ」と。この不自然な間に観ている人は疑問を感じる。するといつの間にか、お客さんは芝居に集中してくれるのだ、と言うのです。

こんなことを試す勇気はさらさら無く、また、この言動に共感したからでもありませんが、かつてテンポばかりを重視していた僕らも、「一度、テンポを捨ててみよう」とトライした瞬間がありました。どんなに間が空いてもいいじゃないか。それよりも自分の源から湧き出てくる言葉で会話してみようよ、と。結果は散々。ほぼ全てのお客さんから冒頭に示した感想をいただいたと言う訳です(笑)。

でもこの試みは、僕らに「間」とは何かを考えさせる大きな一歩でした。しばらく辛抱して取り組んで行くと、次第にお客さんの感想が「間の悪い」から「独特の間」という表現に変わって行った。そう、「間」とは、やる側だけの心地よさでは計りきれない、観る側の心地よさも相俟って、はじめて適切な時間が決まるのです。

世阿弥はこれを「一調二期三声」と言っています。まず心の準備をして、次にタイミングを測り、最後にようやく声が出るのだ、と。この「間」というのは一見何も無いように見えて、実は色々なものが詰まっていると僕は考えています。この色々なものが居心地良く並び、過ぎて行く時間、これこそが絶妙な「間」なのだ、とも言えましょう。

昨秋、実家の近くで公演した折、嬉しいことに小学三年生の姪っ子が観に来てくれました。が、観終わって開口一番「言葉と言葉の間がちょっと長かったね」。・・・僕らもまだまだ精進が足りないようです。


紅月劇団 石倉正英 (2014年春・初夏号)

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忘れた台詞を絶妙な「間」で思い出そうと試みる石倉(右)

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アドリブは蜜の味

脚本に書かれていない台詞や動きでお客さんを笑わせること、それは私にとって最高のライブ感を伴うこの上ない喜び、最早、生き甲斐と言っても過言ではありません。今回のテアトロ・カジュは、このアドリブについて考えてみたいと思います。

私のアドリブは大別すると二つの種類があります。一つは出る前に用意するもの、もう一つはその場でひらめくものです。

出る前に用意する? アドリブじゃないじゃん、と言われそうですが、さにあらず。一緒に出ている役者やスタッフに一言も告げずにやるのですから、面白ければ身内もナチュラルに吹き出します。Bプラン、Cプランまで用意しておいて、その場の雰囲気で選択したりもします。ある意味これは「計算されたアドリブ」と言えましょう。

これはこれで面白いのですが、やはりアドリブの醍醐味は後者、即ち「その場でひらめくアドリブ」ですね。その場で起きたハプニング、例えば、一人のお客さんだけがツボにはまって思わず吹き出した、これを活かさない手はありません。すかさずそれを拾ってアドリブをかまし、全員の笑いを誘発して行く・・・これぞ至福の瞬間です。

でも内輪受けや闇雲なアドリブは芝居を壊します。そこには外してはいけないポイントがあるのです。入れていい場面、いけない場面を把握することはもちろん、主に次の3つのポイントが重要です。①某かのハプニングと芝居の流れを瞬時に結びつけること。②程よく脱線し、また戻ってくること。③意識がお客さんに向いていること。

スベることも恐れてはいけません。スベッて当然の心づもりが何より肝要。そう、簡単そうに見えて案外高度なテクニックを要するのです。これらがうまく嵌ると、悔しいかな、脚本に書いた秀逸なギャグよりもお客さんは笑ってくれるのです。誰もが予想しえない、その場でしか味わえない笑いの瞬間を共有できるからかもしれませんね。

落語に「枕」というのがありますね。本編に入る前にお客さんの心を解きほぐす、距離を近づけ、聴く準備を整えるような効果があるかと思います。私はこの枕が芝居にあっても良いと思っていて、ほぼすべての作品の冒頭にその時間を設けています。そしてそこには落語の枕よろしく、アドリブの要素が不可欠であると実感しています。

アドリブを厳密に禁止している劇団も多々あります。役者達が好き勝手にアドリブをかまし始めたら、とても収拾がつかなくなりますものね。そう、かく言う我が紅月劇団も私以外はアドリブ禁止。それは何故か。先の3つのポイントができる役者が私をおいて他にいないから?

いえいえ、この蜜の味を他の役者に味わわせたくないからですよ。

紅月劇団 石倉正英 (2014年新春号)

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「今笑ったの誰だ!」
"枕"でアドリブをかます石倉 "893"@麻心」(Photo by Naoko Sekino

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タテガキ vs ヨコガキ

かつてある知人に脚本をプレゼントした時のこと、「あれ? 横書きなんですね」と驚かれたことがあります。
言われてみると、僕の脚本はすべて横書きであることに気づきました。それまで、それが普通のことだったので、そう言われてみて初めて認識したというか・・・、と同時に世間一般の脚本は縦書きがほとんどだということに、今更ながら改めて気がつきました。

縦書きの脚本と横書きの脚本では、できた芝居に違いが出るものでしょうか? この記念すべき【テアトロ・カジュ】第一回は、この問題を繙いてみようかと思います。

脚本に関わらず、僕は文章を書く時は、自然と横書きになります。このコラムの文章もまたしかり。それは何故かと考えてみると、子供の頃、学校で鉛筆やシャーペンで書いていた時のこと、右利きの僕は縦書きだと小指の外側が真っ黒になり、紙面も汚れて行く。一方、横書きだと汚れない。絶えず、紙に触れている手は、未だ書かれていない所に置かれているので、手も紙も汚れない。横書きが好きになった理由は恐らくここにあるのだと思います。本来、縦書きというのは筆で書く、即ち、手を紙につけずに書くものであるのでしょう。

しかし、頭の良い読者の皆さんは、きっとこう思われていることでしょう。パソコンに 入力する分にはどっちだって手は汚れないじゃないか、と。そう、何を隠そう、アナログ人間の私は、未だにノートに手書きしないと、イマジネーションが膨らまないのです。

パソコンに打ち込む時点で縦書きにしても良いのですが、それだと何だか違和感を覚える。手書きしていた時に、左から右へと横に進んで行く感覚の流れが失われてしまうような、何とも変な気分になってしまうのです。下手(左)から上手(右)へという芝居の基本的な流れと呼応しているような、そうでないような・・・。

渡された役者さんにとっても、それは案外大きな問題のようで、かつて一度だけ、どうしても横書きの脚本に馴染めない、と言われたことがあります。それは多分に慣習的なものだとは思いますが、目で追う方向というのも人の感覚と密接に繋がっているのかもしれません。

とすれば、出来た芝居にもそれは少なからず影響を与えるようにも思えます。縦書きの脚本では、ひとつひとつがストッストッと落ちて行くようなかちっとした感じに、横書きのそれでは、スーッスーッと流れるような緩やかな感じの芝居になる、とか(笑)。一方で、行間を貫く主題は縦書きでは横に、横書きでは縦に現れるのかもしれません。織物の縦糸と横糸の関係に似ているでしょうか・・・これは皆さんの方がお詳しいですね。

冒頭の知人は、嬉しいことに続けてこう言ってくれました。「縦書きという慣習にとらわれず、あなたには横書きを貫いてもらいたい」と。粋な一言ではありませんか! こういう人たちのおかげで今の自分があるのだと痛感する瞬間です。

そして、その言葉に励まされた僕は、今日も横に脚本を書いて行くのでした。

紅月劇団 石倉正英 (2013年秋冬号)

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