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余白が無いからここには書けない

「フェルマーの最終定理」というのをご存知でしょうか?

1600年代に活躍していたフェルマーと言う数学者が「私はこの定理の驚くべき証明を得た。 しかし、余白が無いからここには書けない」とノートの片隅に書き残して死んでしまった。並の数学者ならまだしも、フェルマーの生前の功績を考えると、とても無視できない一言で、その後、多くの数学者が挑んでは散って行ったという、実にミステリアスな数学的難問のこと。
数学が好きな人はもちろんのこと、生理的嫌悪感を抱く人にとっても、何ともそそられる話ではないでしょうか。恐らく、もしそこにあったなら、これほどのミステリーにはならなかったであろう「余白」というものについて、今回は掘り下げてみたいと思います。

前回取り上げた「間」というものに通じる所の多い「余白」ですが、芝居においてもそれは とても重要な要素をなします。

もっとも端的なのはラストシーンですね。台詞で終わる、音楽で終わるを問わず、何らかの形で芝居が終わった直後に訪れる静寂は、お客さんが余韻を楽しむ、そして現実の世界に戻って行く重要な「余白」となります。

空間的な余白というものも面白い。常に多くの役者が均等に空間を埋めて進むシーンは息が詰まるもの。時に一カ所に寄ったりして、ぽっかり空間的余白を作ってやると、知らずふっと息が吐ける。これは日常の世界でもそうですよね。

昔、三島由紀夫の「サド侯爵夫人」という芝居をやった時、稽古はじめの直前に、一人の役者が出られないことになった。今から代役を捜すのか、と目の前が真っ暗になったその時、ふと「いっそのこと、主役を不在にしてみようか」と思い立った。周りの登場人物達はあたかも主役のルネが出ているかのように振る舞うが、ルネがいるはずの所にはぽっかりと穴があいたように何も無く、台詞も聞こえてこない。この時、実に奇妙な「余白」が舞台上に生まれました。もちろんこの実験的な芝居の賛否は割れましたが、僕はここに今の自分の芝居に至るとても重要な何かを見いだした気がしています。

2〜3年前、カジュのたなかさんとアコーディオン奏者の岩城里江子さんと3人で飲んでいたときのこと、何かの拍子に「余白」の話題になって、お二人からこんな素敵なお話を伺いました。「サルサの四拍目は休みの間ではなく、相手にどうぞ、という間なんです」(たなか氏)、「指揮者が四拍子の四拍目をテンポにとらわれず自由に振ると音楽が豊かになるんです」(岩城氏)。

余白だけに四拍目に何か通じるものがあるようです。

紅月劇団 石倉正英 (2014年夏号)

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役者が出を忘れた結果生じた微妙な「余白
(「くたばれ道元!」より Photo by Naoko Sekino)

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