間の悪い芝居
「何とも間(ま)の悪い芝居だったねえ。」よくこんな風に言ったり、言われたりします。
この場合の「間」とは、主に台詞と台詞の間の時間を指すことが多い。今回はこの「間」について一考してみたいと思います。
小気味良いテンポでポンポン進んで行く会話というのは、観ていて何とも気持ちの良いものです。それが売りの劇団も多いですし、今の漫才やコントはとかくこの「間」の無い、スピーディなものが主流となっていますね。しかし、一方でそれは右から左、あまり心に残らない会話にもなりうる。お客さんの心に残るかどうか、それには色々な要素がありますが、最も大きな鍵は、台詞の「間」にあると僕は考えています。間って何でしょう?
イッセー尾形さんの一人芝居をご覧になったことがありますか? もしあれば正直にお答えいただきたい。それはとても間の悪い芝居ではありませんでしたか? そう、かく言う私も生で拝見した際、何とも気持ちの悪い間の長さを感じました。これについて彼はこんなことを言っています。「わざと不自然な間をとるのだ」と。この不自然な間に観ている人は疑問を感じる。するといつの間にか、お客さんは芝居に集中してくれるのだ、と言うのです。
こんなことを試す勇気はさらさら無く、また、この言動に共感したからでもありませんが、かつてテンポばかりを重視していた僕らも、「一度、テンポを捨ててみよう」とトライした瞬間がありました。どんなに間が空いてもいいじゃないか。それよりも自分の源から湧き出てくる言葉で会話してみようよ、と。結果は散々。ほぼ全てのお客さんから冒頭に示した感想をいただいたと言う訳です(笑)。
でもこの試みは、僕らに「間」とは何かを考えさせる大きな一歩でした。しばらく辛抱して取り組んで行くと、次第にお客さんの感想が「間の悪い」から「独特の間」という表現に変わって行った。そう、「間」とは、やる側だけの心地よさでは計りきれない、観る側の心地よさも相俟って、はじめて適切な時間が決まるのです。
世阿弥はこれを「一調二期三声」と言っています。まず心の準備をして、次にタイミングを測り、最後にようやく声が出るのだ、と。この「間」というのは一見何も無いように見えて、実は色々なものが詰まっていると僕は考えています。この色々なものが居心地良く並び、過ぎて行く時間、これこそが絶妙な「間」なのだ、とも言えましょう。
昨秋、実家の近くで公演した折、嬉しいことに小学三年生の姪っ子が観に来てくれました。が、観終わって開口一番「言葉と言葉の間がちょっと長かったね」。・・・僕らもまだまだ精進が足りないようです。
紅月劇団 石倉正英 (2014年春・初夏号)
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