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2016年4月

セリフの覚え方

「よくあんなにセリフが覚えられるものですね」と言われることがしばしばあります。 確かにモノローグの長ゼリフとなると、A4 サイズにして2枚に渡ることもあり、やったことのない人からすれば、特殊能力に思えるのかもしれませんね。でもこれだけは確実に言えますが、誰でも覚えられるものなんです! え?嘘だろうですって? フフフ。
記念すべき第10回目のテアトロ・カジュは、このセリフ覚えの秘密について紐解いてみたいと思います。 

と言っても、役者が皆すんなり覚えられるわけではなく、うちの劇団にも、毎回七転八 倒の苦しみと共にやっとこさセリフを覚える役者もいます。しかし、僕の場合はというと、 自慢じゃありませんが、セリフを覚えるのにあまり苦労をしたことがありません。といっても、昔から暗記は不得手ですし、覚えるコツがあるわけでもないのですが、強いて言え ば、「セリフを覚える」という感覚ではなく、「結果的に覚えてる」という感覚に近いように思えます。

セリフの覚え方には概ね2タイプあるように思えます。一つは文字通り「一字一句暗記 する」タイプ、もう一つは「結果的に覚えているタイプ」。どちらが良いというのはありませんが、どちらも良い面と悪い面があることは事実。僕の場合は明らかに後者で、何度か稽古で合わせていくと自然とセリフが身についてくるので「覚える」苦労はあまりない のですが、反面、流れのない、支離滅裂なセリフなどは甚だ不得意です。
一方、暗記する タイプは、セリフを入れるのには苦労しますが、台本に忠実で、支離滅裂なやりとりも難なくこなす。いわば台本を理論的に捉えるか、記号的絵画的に捉えるかの違いかもしれません。どちらにせよ、最終的に「自分の言葉」にすることが大切なので、アプローチの仕方は好き好きで良いのですが。

一方、我々役者にとっては「忘れる能力」というのも結構大切です。たとえば、本番中にセリフを間違えてしまった。この「間違えた」ことをいつまでも覚えているとろくなことになりません。「次のシーンのセリフ、ちゃんと出てくるだろうか」という疑心暗鬼は、 必ずやさらなるセリフの間違えを誘発します。こんな時になすべきことはただ一つ、早々 と「忘れる」ことです。

とかく人は記憶していることを良しとしがちですが、この忘れる能力というのも、案外、 人間社会において有効な力のような気がします。自分の失敗を早いとこ忘れたいように、 他人の失敗も早いとこ忘れてあげることで、世の中は実に円滑に回っていく。そう、この 忘却力こそが、世界を救う唯一の方法・・・というのは少々言い過ぎでしょうか(笑)。

痛々しい自画像が印象深いメキシコの女性画家フリーダ・カーロの生涯を描いた映画の中、結婚を決めた彼女と父親との間で、こんな素敵な会話が交わされるシーンがあります。 「パパ、結婚生活を長く幸せに続ける秘訣は?」「ショート・メモリー」

紅月劇団 石倉正英 (2016年新春号)

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スローモーション

「超ゆっくり歩いてみてください」と言われると、人は途端にヨロヨロとぎこちなくなってしまうもの。あれ? 普段どうやって歩いてたっけ? と、頭で考え出したらもう最後です。この漢字、これで良かったっけ? と悩むのに似たループに果てしもなく陥ってしまいます。歩く動作だけでなく、普段無意識にしている動作をゆっくりやるのはとても難しいものです。試しに、超ゆっくり指折り5つ数えてみてください。ね、手がプルプル震えてくるでしょう?

今回のテアトロ・カジュは、この「ゆっくりした動き」すなわち「スローモーション」にスポットを 当ててみたいと思います。

普通のスピードの動きでも、舞台の上で普段通りにやろうとすると、なぜかぎこちなくなってしまうのが人情です。無意識に振舞っている動作に意識が介在することで、動作をぎこちなくさせてしまうのです。では、舞台上でも無意識に振る舞えばいいじゃないか、というと、事はそう単純ではありません。ある程度決められた動作をする必要がある上に、お客さんからの見られようも意識する必要があるからです。ではどうやってそれを克服するか・・。それにもっとも役立つのがスローモーションのトレーニングだと僕は考えています。ゆっくりした動きを繰り返しトレーニングする事で、ある程度意識が介在してもスムーズに動けるようになり、やがては適度に意識を抜いていく事ができるようになってくる。子供の頃、見よう見真似で習得した人間的動作というものを、もう一度学び直すような作業ですね。

僕のバイブルといっても良い「弓と禅」という本があります。ドイツの哲学者、オイゲン・ヘリゲルが弓道を習い、最後は五段の免状をもらうまでになる一部始終を記録したものですが、西洋人の合理的な視点で日本の武道という非合理的なものを見つめる、それが故にとても分かりやすく、面白く、そして日本人師範の教えの言葉がいちいち胸に突き刺さってくるという名著です。

その中で、必死に弦を引こうと頑張っているヘリゲルに師範がこんな事を言う場面があります。
「腕の筋肉を使って引くのではなく、腕の筋肉は引く手を見ているようにしなさい」と。なんとも不可解な言葉ですが、この言葉がふっと腑に落ちたのは、まさに最近やった舞台の本番でのことでした。土下座したところで皆が去り、その行く手を見ながらゆっくり上体を起こす、まさにその時、意識は完全に去りゆく人物にありながら、必要最低限の筋肉に上体を起こす動作を全て任せられた気がしたのです。僕にとってそれはまさに、余計な力を使わずに弓の弦を引けるようになる瞬間に似たパラダイム・シフトでありました。心に無限の自由が与えられたと言ったら大げさですが、これもひとえにスローモーション・トレーニングの賜物と、一人頷いていたのでした。

紅月劇団 石倉正英 (2015年秋・冬号)

Ishikura_sanada
(「真田の城」より Photo by 折笠安彦)

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小道具

岩や建物など舞台セットとなるようなものを大道具、役者が手に持ったり、動かしたりするものを小道具と言います。例えば、刑事が舞台上でタバコを吸う、この場合のタバコは小道具であり、当然のことながらタバコを吸うシーンだから使われているわけですが、そのシーンの位置づけや登場人物の心情に目を向けると、タバコは単なるタバコという存在を超越し、様々な意味やイメージを持ってくる・・。皆さんも、映画や舞台を見ていて、時折そんな風に感じられることがあるのではないでしょうか? 今回のテアトロ・カジュは、単なる「モノ」にとどまらない小道具の奥深さに触れてみたいと思います。

自分の作品を作り始めて間もない頃、女性が小刀で自らを刺して死ぬシーンがありました。そこで僕は役者が怪我をしないように、東急ハンズで、刺すと刃が引っ込むジョーク・ナイフを買ってきて使ったのですが、本番を終え、お客さんのアンケートを読んでみると、それがジョーク・ナイフだということがバレバレだったのでした・・。僕は、その時卒然と、どんなに小さなものでも、舞台上に出て来る何一つとして、おろそかにはできないのだということを痛感したのでありました。

そう、小道具は舞台に上がった瞬間に様々な意味を持ってくる。いわば、象徴物となるのです。死の直前にその女性にじっと見られた小刀は、その女性の生から死に向かう「思い」の表徴となるはずで、ひょっとするとそこにはその女性の人生の全てが乗ってくるのかもしれない・・。

チェコにオブジェクト・シアターという演劇のジャンルがあって、これは芝居の進行とともに一つの「モノ」を横にしたり、ひっくり返したりして、様々な形、意味に変化させていくお芝居。そこでは、小道具の象徴性が存分に発揮されていて面白いのですが、今から10年ほど前に、長年オブジェクト・シアターを牽引してきた舞台美術家・ペテル・マターセクさんのワークショップを受ける機会を得ました。これが実に発見と気づきの連続だったのですが、最後の最後、とても面白い課題が与えられました。なんと「新聞紙で水を表現しなさい」というのです。参加メンバーからは「新聞を燃やし、その灰を雨のように降らせるとそこから植物の芽が出てくる」など、興味深いアイデアがたくさん出されました。単にリアリティのある小道具を使えばいいというのではなく、イメージ一つで小道具はいかようにも面白く化けていくということを教えられたのでした。

さて、その後再び、小刀で人が死ぬというシーンを作る局面が訪れました。少しグレードアップした僕がジョーク・ナイフの代わりに用いたのは・・厳選した短い竹の棒。幸いにして、賢明なお客さんはそこに色々なイメージを重ねて観てくれたようでした。

紅月劇団 石倉正英 (2015年初夏号)

Kodogu
竹筒作戦!」その後ギャグシーンに転用された竹の小刀
(「新田義貞の稲村ガ崎越え!」より Photo by Sekino Naoko)

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丹田

僕の生まれ故郷、群馬県は沼田市から南に20kmほど行った所に渋川市というところがあって、「へその町」と称しています。地理的にちょうど日本の真ん中になるから「へその町」なのだそうです。このように、あなたの中心はどこですか?と聞かれたら、「おへそ」と答えられる方が多いのではないでしょうか。しかし、お芝居の世界で役者さんにそれを尋ねると、「へそ」よりも少し下を指す人が多いことでしょう。それは普通の人よりも足が長いのを自慢している訳ではなくて、そこが「丹田(たんでん)」と呼ばれる場所だからなのです。

ご存知の方も多いと思いますが、「丹田」とは「おへそ」よりも指何本か下にあると言われている、具体的な形を持たない場所のことです。「丹田」という言葉は知っていても、ここだ!と明確に意識できる人はあまりいないと思いますが、案外、これを実感することは簡単で、あることを行うと誰でも「ああ、ここか」と認識することができるのです。その「あること」とは・・・僕のワークショップの最初に必ず紹介していますので、ご興味ある方は是非一度受けていただければと思います。フッフッフ。

丹田とは体の中心であるとともに心の中心でもあると僕は思っています。たくさんのお客様の前で演技することはとても度胸のいることですが、そこを依りどころにすると不思議と気持ちが落ち着いてくる。人との会話においてもそう。今時の速い会話は頭で行っていることが多く、つい浅薄になりがちですよね。相手の言ったことを一度丹田まで飲み込んでよく消化し、そこからわき起こる思いを発語すれば、とても深く、面白い会話がなされるはずです。もっとも現代では、そうしている間に間が持たなくなって、相手が別の話を始めてしまいそうですが。笑

 

体の話に戻りましょう。山道など足下の悪い所を歩く時、丹田に意識を置いてみてください。体の軸がしっかりして案外楽に歩けることを実感されると思います。加えて体幹を鍛えておけばもう無敵。夜道で人に襲われても容易に倒されることはまず無くなるでしょう。(注:効果には個人差があります。笑)

さて、今から数年前のこと。東京のそこそこ混んでいた中央総武線の車中で、にわかには信じられない光景を目撃しました。隣に立っていた若い女性が、吊り革につかまりもせず、おもむろにアイラインを引き始めたのです。ガタゴト揺れ動く車中にあって、微動だにしない体の軸。迷い無く目蓋に引かれていく一本の美しいアイライン・・・。急停車したら危ないじゃないか、などという言葉は愚昧です。彼女は丹田を極めている! 彼女の立ち姿の美しさに、しばし僕はポカンと見とれていたのでありました。

紅月劇団 石倉正英 (2015年春初夏号)

Duke
丹田のトレーニングに励む愚犬・デューク

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