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2016年11月

MASKⅡ

Mask_2     ヌビアの仮面(石倉コレクション)

皆さんは、昨年、東京都庭園美術館で行われた「マスク展」をご覧になりましたか? フランスの国立ケ・ブランリ美術館所蔵のコレクション展で、特にアフリカの貴重な仮面がたくさん展示されていました。私なんぞは、ただもうひたすら「ハー」「ホー」「へー」「オー!」を繰り返すばかりの至福の時間でしたが、その個性豊かな芸術性あふれる造形や色遣いには、キリコやエルンストらの原点を見る思いがしました。
5つ書いたら一休み。S.6の「MASK」に引き続き、今回のテアトロ・カジュは仮面にまつわるエピソードを、またひとつご紹介したいと思います。

広大なアフリカ大陸には、その部族によって様々なテイストの仮面がありますが、その一つ、エジプトのナイル川上流、アスワン・ハイ・ダムあたりから南方一帯にヌビアという民族がいて、彼らの仮面もまた素晴らしいのです。

かつてエジプトを訪れた折、まさにアスワンの街を歩いているとヌビアの仮面ショップが! すかさず入ると店内に所狭しと並べられたヌビア面の数々。いやもう、どれにしようか、あれも欲しい、これも欲しい・・・が、その値段を聞くと飛び上がるほど高い。そう、エジプトは値段交渉無くして物が買えない国だということを思い出し、こちらの心の内を完全に見透かされた店主とのディスカウント交渉にうんざりしつつも、最も気に入った宇宙人を彷彿とさせる仮面を、そこそこの価格で購入したのでした(写真)。

そしてここ数日の宿となっていたナイル川に浮かぶ船に戻った時、事件は起こったのです。夕食に行く途中、仮面を手に入れてホクホクしていた私は、身も心もリラックスしたためか、はたまた昼間食べたモロヘイヤ・スープに当たったためか、やおら催し、トイレに駆け込みました。このトイレ、個室でありながら妙に広い。なんとも言えない落ち着かなさを感じつつ用を足していると・・・おもむろにドアが開き、ななななんと、白人のオバさんが入ってきたではありませんか! 二人とも目が合った瞬間「オー!」。しかしそのオバさんは、謝りもせず、不快そうな顔で舌打ちすると殊更激しくドアを閉めて出て行ったのでした。

「被害者は俺だ!」と、カチンときた私は自分の状況も顧みず、勇ましくこう言ってやりました。

「Knock the door!」(ノックしろ!)。するとそのオバさん、悪びれもせず、ドアの向こうからこう切り返したのです。

「Lock the door!」(ロックしろ!)。

「確かに・・・」、その鮮やかな切り返しに思わず頷いてしまった私が、その後、恥ずかしさのどん底へと突き落とされたのは言うまでもありません。

2016年夏 紅月劇団 石倉正英

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デビッド・ボウイ追悼

〜あるいは、芝居と音楽のやんごとなき関係〜

芝居にとって音楽とは、空気感や雰囲気を与えるものであり、間を作るものであり、切るものでもあり、インスピレーションを与えるもの。芝居にとってそれはとても重要な構成要素の一つです。それゆえ、良い音楽との出会い、良いミュージシャンとの出会いは、良い芝居を作るための必要不可欠なことと言えましょう。

僕の場合、芝居を始めたばかりの頃は、既製の音楽の中から芝居にあったものを探してつけておりました。その後、才能あるギタリストと出会って、芝居のイメージに合う音楽を、キーボードやギター、Macなどを駆使して作ってもらい、それをCDに録音して当てる、という時代を迎えました。いわばレディメードからオーダーメードにグレードアップして、よりこだわりのある芝居に進化したように思ったものです。何より、音楽の著作権から解放されたのが嬉しかった!笑

しかし、ここでひとつの大きな問題に直面することになります。「尺(=長さ)」という問題です。そう、芝居は生ものですから、その日、その時、役者や観客の状況によって常に長さが変動します。もちろん、一分一秒単位できっちり「尺」を決めた演出もありますが、逆に都度伸縮してしかるべきと捉えている僕の芝居では、それは避けようのないジレンマだったのです。綿密な打ち合わせで決まったはずの「尺」を守って正確に打ち込まれた音楽は、その時の「なり」で伸縮してはくれず、早く終わってしまったり、逆にえらく余ったり、仕方なく長めに作っといてフェードアウトさせるか、という妥協案に落ち着くしかなくなってしまうのです。そして必然的な結果として、生で色々な楽器を操ってくれるミュージシャンと一緒にやることに落ち着いたというわけです。

もうひとつ、古楽器との出会いも僕にとっては大きなターニングポイントでした。電子的な音楽や、アンプやスピーカーを経て聞こえてくる音楽に合わせる絵も言われぬ違和感、それはそれで面白くもありましたが、古楽器から出てくるプリミティブな音色は、まさに木の音であり、風の音であり、人や動物の息の音でありました。人の声と調和する自然の音。この音に出会ってしまったが最後、最早これ以外ない!と思ってしまったのです。

音楽といえば・・・、大学2年の時、初めて脚本を書き演出した作品のテーマ曲として選んだのがデビッド・ボウイの「ヒーローズ」という曲でした。その彼が、ご存知の通り今年の1月10日に亡くなりました。いわば僕の芝居はデビッド・ボウイの音楽で幕を開け、彼が亡くなった年に劇団創立20周年を迎えた格好となります。なんとも不思議な縁を感じますし、実際、彼の音楽やパフォーマンスに、僕自身、とても大きな影響を受けてきました。常に変わり続け、世界を刺激し続けてきた彼の作品や生き様をお手本に、これからも芝居と音楽の良き有り様を探求し続けたい。

晩年の傑作「The Next Day」を聞きながら、今、そんなことを考えています。

2016年春 紅月劇団 石倉正英

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イタリアから鎌倉への手紙 ーその1ー

お元気ですか?鎌倉へお便りします。こちらは北イタリア、フランスに近いピエモンテ州の葡萄畑の山の上にある小さな町に暮らしています。もともとイタリアのスローフード運動に興味があったことや、旅ではなく、海外でその土地の言葉を話し、暮らして料理の仕事をしたい、という想いからイタリアに渡りレストランの厨房でコックとして働きだして早1年半が過ぎます。

レストランの日々のまかないは私の当番で、外の庭の長テーブルに白いテーブルクロスをバッと広げて、シェフとシェフの旦那さん、3人の小さな子どもたち、シェフの妹さん夫婦、おかあさん、おばあちゃんまで、下は4歳から上は95歳まで4世代、総勢10人が揃ってのお昼ごはん。
イタリアでは今まで3件のレストランで働きましたが、どこも家族経営で、こうして家族揃って旬の野菜や食材をたっぷり頂く風景に出会います。今は毎日、レストランの小さな畑でズッキーニが採れるので炒めものに、牛の心臓”cuore di bue”という名前の皺の刻まれた大きなトマト、赤玉葱、ラディッシュ、柔らかいチコリーの葉をサクサク刻んでサラダでお皿に山盛りいただきます。味の濃い旬野菜をたっぷり使ったごはんを家族で囲んで、おしゃべりしたり、食事中に家族ケンカが始まったり...風に吹かれて子どもたちや皆ひとりひとりの顔を眺めていると、このために毎日の料理をしているなぁとしみじみ思うのです。

レストランの野菜は、ほぼ90%地元のAlbaという町の野菜市場で買いだしています。地元の農家さんが 朝から野菜を並べる様子は鎌倉の市場を思い出します。初夏のいま時季の人参は、もうだいぶ細い、小さな ものが主流になっています。先日は野菜が足りなくて少しだけスーパーマーケットで買いだした人参は、 太くて大きく、そのときは何も感じなかったのですが、私がまかないでそれを使おうとしたら、シェフに 「それはfakeだから食べたくない。」と言われて本当にどきり、としました。日本でも一年中スーパーで 出回っている大きな人参の見た目はきれいで大きくて使いやすいけど、味が薄いことはわかっていたのに、 いつの間にか効率性からどこかで妥協して、感じなくなっていた自分がfakeである、と言われた気がしました。野菜だけではなく、様々なものに対して、多くの人が当たり前だと思っていることに「fakeだから要らない」と前向きに言える感性を持っていたいと思わされたのでした。
EU、イタリアではすべての遺伝子組み換え食品に表示義務があり、市場に占める有機食品の割合も比較的高く、意識の高さが伺えますが、同時に日々の食に対する五感が鋭いように感じます。
最近になってレストランの庭では野生の木苺が実りはじめています。料理で使う野草を摘みながら、 それを一粒口に放り込むと、舌とのどを通って心臓にひびくような、何にもこびない嘘のない野生の強い 味がするのです。

そんな味を見極めたい、伝えたい、料理そのものよりもそんな感覚を育てているこの頃です。

料理人、ピアノ弾き。
東京PURE CAFÉ、鎌倉のLife Forceを経て、現在イタリアで料理修行中。
2012年ピアノCD「カゼノカミサマノイルトコロ」発表。
カジュ・アート・スペースさんでピアノの練習をさせてもらう時間がとてもすきでした。
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