木 霊
皆さんにとって心地よい声とはどんな声ですか?
濁りのない澄んだ声? 温かみのある鼻にかかった声? はたまたセクシーなハスキーボイス? 人それぞれ「好きなタイプの声」があるかと思いますが、特段好きでないタイプの声の中にも、時として心地よい声というのがあるのではないでしょうか。
では、もう一つ質問です。「自分の声が好き!」という方はいらっしゃいますか? 誰もいない? 一人も? そう、自分の声を録音したものを聞くことほど、嫌なものはないですよね。概して人は自分の声は好きではないもの。
うちの劇団に、その声のファンが多い役者がいるのですが、その彼ですら、うちに来た当初は「自分の声が嫌で嫌で」と言っていましたから、この法則は誰にでも当てはまるのではないかと思います。そう、どんなナルシストでも、自分の声だけは我慢がならないと思っているのではないでしょうか。
台詞劇にとって役者の声は命にも等しいもの。お客さんに届く大きな声を出せるように、心地よく聞いてもらえる声を出せるように、誰しも努力を惜しみませんが、一方で、大きいけどけっして心地よいとは言えない声を発する役者も少なくありません。この違いは一体なんでしょう?
これは、僕はひとえに「不自然さ」ではないかと思っています。どんな声でもその人が無理なく自然にのびのびと発している声は耳に心地よいもの。好きではないタイプの声の中にも、時として心地よい声があるのはこの理由によるのだと思います。もちろん、役やシーンによっては耳障りな声を求められることもありますが、まず、その人にとって一番自然な声とは何かを見つけること、そして、いつでもそれを出せるようにすることこそ、発声の第一歩であると僕は考えています。
自分の声を聞く機会といえば、もうひとつ、「こだま」がありますね。日本では「木の霊が真似して返す」と思われていたことから「木霊」と書きますが、西洋のそれはもう少し切ないお話が元になっているようです。
英語で木霊は「echo(エコー)」。その語源はギリシャ神話にまで遡ります。おしゃべり好きのニンフ(妖精)・エコーは浮気者の神・ゼウスの妻ヘラの怒りを買って、人の言うことを繰り返す以外、声を発せなくされてしまいます。恋した美男子ナルシスにも気持ちを伝えられず、ただ彼の言葉を繰り返すのみ。誤解を招いたエコーは悲しみのあまり消え失せて、最後には声だけになってしまうのです。
なんとも切ないお話ではありませんか。ああ、だから自分の声はなんとも嫌な感じに聞こえるのか・・・いえいえ、このかわいそうなエコーのためにも、皆さん、もう少し自分の声を愛してあげてください。ひょっとすると、それが素敵な声になる第一歩かもしれませんよ。
2017年初春 紅月劇団 石倉正英
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