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2018年1月

たねのなか 〜3〜

*カジュに集う皆様、こんにちは。夏が過ぎ、気がつけばもう11月の声。信じられないはやさです。
やっぱり、四季がくっきりとしているというのは、人生が加速するような気がします。

*いきなりですが、みなさんは、「金持ち父さん 貧乏父さん」という、かつてのベストセラーをご存知でしょうか。私は、タイトルだけは知っているけど、実際に読んだことはないのですが、その著者が、最近こんなことを言っていたそうです。

「失敗を恐れるな。失敗することでのみ、人は学べる。日本の教育は、「失敗するな」の教育。だから成長しない。」

「失敗するな」の教育・・。彼は、「日本はかつて失敗したら「ハラキリ」だったから仕方ないけど」、とも言っていたそうです。彼の言うとおり、ハラキリのせい?日本人の特長?なのでしょうか。

*確かに、糸紡ぎのWSをやらせてもらうと、なぜだか皆さん一様に、「キレイな糸」「均一な糸」を目標にされるなとは、感じていました。スピンドルというこまは、コツがあり、少しづつ身体で覚えていくので、手が慣れていない初めは、ぼこぼこの不均一な糸になります。でも、それは、その人にしか紡げない糸で、蚕のように、その人の身体を通って出てくる、唯一無二の糸なんです。そして、力が抜けると、自然と羊毛がなりたいようになって、愛おしさのあふれる、すばらしい糸になります。それができちゃったら、編んでも、織っても、そのまま置いておいても、いいのです!糸に力があるのです。買うことのできない、時間と空間を封じ込めた糸なのです。失敗なんてありえない、「みんな違ってみんないい」糸。

*私も、普段は失敗は嫌いですし、怖いです。でも、こと糸紡ぎに関しては、誰にも習わなかったせいか、失敗という概念はなかったような気がします。人と比べようがなかったのも、よかったのかもしれません。ただただ、ふわふわもこもこが、毛糸になって行くさまがおもしろすぎた。あれから10年。今でもそれは同じです。

*そんな感じで、正しいも失敗もない中で、ただ純粋に何かを楽しめると、ふだんの「失敗してはいけない」が、少しゆるむのかもしれません。失敗上等。まだまだ、そう思えない部分もありますが、失敗を恐れている自分、失敗して後悔してる自分を見つけたら、大丈夫だよ、学べたよ、と言ってあげたいと思います。

2017年・秋
向井 吏恵(つむぎ)

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たねのなか 〜2〜

*「少女パレアナ」、という本をご存知でしょうか。
「赤毛のアン」を訳した村岡花子さんの訳で、本好きだった私は、夢中になって読んでいました。

彼女の趣味は、牧師だったお父さんから教えてもらった、「喜びの遊び」。
一見、しあわせに思えない状況で、いかに発想の転換をするか。前向きにとらえるか。というような内容でした。
子ども心に、ううむと唸りながら、読んだ覚えがあります。
(テレビでも、ハウス名作劇場で「ポリアンナ」として放映されていたみたいですね。私も見てたはずなのですが、なぜだか記憶になく。ご存知の方、いらっしゃいますか~?)

*ここのところ、旅行以外で、海外暮らしの経験がある日本人や、世界一周へ出かけて帰ってきた日本の人と、お話する機会が、多々あります。
そこで気がついたのは、同じような経験をしていても、とらえ方によって、プラスなったりマイナスになったりするこということです。

結局は、何が起きたかではなくて、それをどうとらえるか、なのですね。
それこそ、パレアナのように、前向きにとらえてもいいし、全く逆でもいい。
私は、海外に行って、“もともと好きだった日本が、ますます好きになった組”ですが、もちろんそうでない人もいる。
そう考えると、良い悪いや、幸も不幸もよくわからなくなってしまいます。
ただ単に、好みの問題なんでしょうかね。

*それにしても、なんだか不思議だなあと思うのです。人によって違うことが。
最近は、その違いを確認するのがおもしろくて、いろんな人から話を聞くことに興味があります。
まだまだ若輩者なので、自分の我が出ることも多いですが、みんなそれぞれ自分の好みがあること、一人一人違うこと、そしてそれはどうしようもないこと、に、深い安心と、おもしろさを感じる日々です。
ということで、「パレアナ」、もしご興味があれば、図書館などでぜひぜひ。

もし、嫌いな内容だったらごめんなさい!私も、久々に読み返してみようかなあ・・。

2017年・夏
向井 吏恵(つむぎ)

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十二夜

 これを書いている今、私の住んでいる鎌倉・材木座では光明寺というお寺の一大イベント「お十夜」の真っ最中です。「お十夜」とは、戦国時代に後土御門天皇より光明寺第九代・観譽上人に勅許された「十夜法要」のことで、三日三晩に渡って法要が行われるほか、稚児を交えた行列や夜店が出るなど、秋の材木座の風物詩となっています。何より毎年その入り口横に出る大判焼きがとても美味しい! 私のオススメはカスタード・クリーム。機会があったら是非食べてみてください。

この「お十夜」と時を同じくして、我が劇団のワークショップの発表公演が行われました。そして今回の題材は、奇しくも、シェイクスピアの「十二夜」だったのです。狙ったわけではないのですが、考えてみれば不思議なシンクロニシティでした。 「十二夜」とは、「東方の三博士」が生まれたばかりのイエス・キリストを発見した日、即ち、クリスマスから数えて12日目の夜のことで、キリスト教では「公現祭」という祝日となっています。クリスマス・リースも、この日まで飾られるのが習わしで、日本の「松の内」と、とてもよく似ています。ひょっとすると、キリスト教が信者を獲得するために取り込んだ、原始宗教の祝祭日とも何か関係があるのかもしれません。

今回の作品「十二夜」はシェイクスピアの傑作喜劇の一つで、その内容は、「双子の兄妹であるセバスチャンとヴァイオラが船の難破で離ればなれになり、イリリアに流れ着く。ヴァイオラは少年に変装するが、自分が仕えているオーシーノ公爵に恋をしてしまう。オーシーノは伯爵家の令嬢であるオリヴィアに恋をしているが、オリヴィアはヴァイオラを男だと思い込んで思いを寄せるようになってしまう。そこに兄セバスチャンが現れて・・・」と、話と恋がもつれにもつれまくるドタバタ劇。

面白いのは、劇中、「十二夜」に関する場面、話題がひとつも出てこないこと。内容とも全く無縁なのです。
ではなぜタイトルが「十二夜」なのか。これには諸説あって、いまだにはっきりとはしていません。最も有力なのは、初演が公現祭に行われたから、という説。だとしても初演の日からタイトルをつけるなんて、なんとも乱暴なネーミングではありませんか。とはいえ、私もタイトルを先に決めて提出しなければいけないことがままあるので、ひょっとするとシェイクスピアも「ああ、もう、とりあえず『十二夜』とでもしとけ!」てな感じでつけたのかもしれません。そんな作品が400年以上も上演され続けているのですから、芝居とは面白いものです。

それともう一つ興味深いのは、このお芝居のラストシーンです。 見事に絡まった恋が片付いて、物語は大団円を迎え、登場人物たちが全員退場すると、道化が一人、ポツンと残される。そこで一曲歌を歌うのですが、これがなんとも切ない歌なのです。「・・・さても悲しや嫁とれば、ヘイホー、風と雨、ホラは吹いても腹ペコで、毎日雨は降っていた・・・」。 道化の稼業、自分自身の存在の切なさを歌った歌で終わるのです。喜劇であるはずのこの作品のラストに配された、切実な、物悲しくすらある道化の歌・・・。
そして、乱暴なタイトルの喜劇を作り終えたシェイクスピアは、その後、「悲劇」の時代へと入っていくのでした。

(2017年秋 紅月劇団 石倉正英 )

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GHOST 〜K病院の怪~

今年はここ数年関わっている群馬は中之条ビエンナーレの開催年で、9/9〜10/9の一ヶ月間、国内外およそ150人のアーティストによる様々な展示やイベントが行われます。我々も、もはやホームグラウンドとなった旧養蚕農家・冨沢家住宅を舞台にした「GHOST」という作品を上演いたします(9/30〜10/1)。と、軽く宣伝させていただいたところで本題に入りましょう。今回のテアトロ・カジュは、納涼企画、新作の「GHOST」にちなんで、ひとつ怖いお話をしてみたいと思います。

  学生の頃、あるクラスメートが奇妙なバイトの話を持ってきました。巣鴨にあるK病院が建て替えになり、工事の間、夜間はお医者さんが不在になるので、一泊して、万一救急車がやってきたら、別の病院を紹介するだけという、ある意味おいしいバイトでした。これを友人数人でローテーションを組んで回そうというのです。若くトンガっていた僕らは、怖いからやめようなどという者はなく、即座に面白い、やろうやろう、ということになりました。先に任務に就いたやつらは、翌朝、口々に「余裕余裕」といい、そして、とうとう僕の番がやってきたのです。

  K病院は小さいながらも総合病院で、地上4階、地下2階のそこそこ大きなビルでした。工事中で真っ暗、誰もいない・・・そう、僕らの仕事は夜間の警備員も兼ねていたのです。

  執務室は1階の受付所。そこでTVを見ながら買ってきた弁当を食べ終えたその時でした。誰もいないはずの2階から、人のしゃべる声が聞こえてくるではありませんか! 勇気を振り絞って2階に上がっていくと、なんとラジカセからラジオが流れている! そう、僕らの寝床は2階の病室のベッドで、そこに仲間が目覚まし時計代わりにラジカセを持ち込んでいたのでした。この時、なぜか冷静だった僕は、ああ、前の当番のやつが目覚ましのラジオをかけ忘れたんだな、と納得、いや、言い聞かせてラジオを切り、下へと降りて行きました。

  執務室に戻ってホッとしたのも束の間、また2階から人の声が・・・。まだ辛うじて冷静を保っていた僕は「スヌーズだ、スヌーズ機能が動作したに違いない。ちゃんと電源を切らないと」と再び2階に上がり、今度はちゃんと電源を切って戻りました。

  しばらくの間、聞き耳を立てていましたが、音はせず、よしよし、やっぱりスヌーズだったと安心しきったその10分後・・・けたたましい大音量で音楽が鳴り始めたではありませんか! ドキー!! としつつも、しつこいスヌーズめ、と悪態をつきながら2階に上がるとカセットテープの重々しい再生ボタンが押されている・・安物のラジカセです、目覚まし機能でアナログな再生ボタンが押されるはずがありません。

「出たー!!」パニックになった僕は、外へ飛び出し電話ボックスから110番、さすがに幽霊が出たとは言えず、不審者らしき者が忍び込んだ模様と話して、警察官を派遣してもらうことになりました。到着した屈強な二人の警察官のなんと頼もしかったことか。一緒に全館回ってもらうと、誰もいない・・・。しかし、くだんの病室に行くと、中にあったものが全て廊下に出されていたのでした・・・。激しい幽霊もいたものです。  さて、この事件からちょうど1年後のこと・・・仲間内で飲んでいた時、この話を始めた僕を遮って、仲間の一人がこう言い出しました。「あれ、実は俺たちがやったんだ。お前があんまり冷静に対処するからついついエスカレートして・・・警察呼んだと聞いて、あわ食って今まで黙ってた。でも、もう時効だよな?(笑)」僕はいかりを通り越して、ただ笑うしかなかったのでした・・・。

(2017年夏 紅月劇団 石倉正英)

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嘘という名の演技

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花を愛でていると嘘をつき団子を狙う愚犬

 「人間は嘘をつく動物である」こんな格言を残した人は、歴史上いなかったと記憶していますが、人は多かれ少なかれ嘘をついて生きているように思えます。
 最近の学説では、犬も戦略的に嘘をついて人を騙す、とのこと。確かにうちの愚犬でさえ、怒られると分かっていることをしているのがバレた瞬間、「やってないよ」と嘘をつく風の行動をとる時があります。ミエミエなだけについ笑ってしまい、悔しいかな、彼の嘘はいつも成功を収めるのです。
 しかし、厳密に言えば、これは人のつく嘘とは質の異なるもの、つまり、主人に怒られないためには「そうする方が良い」という経験に基づく行動で、犬自体は嘘をついている感覚は無いような気もします。

 反面、「嘘をつく」というのは、芝居人にとっては面白い行動でもあります。何しろ、誰しもそこでは「演技」をしているのですから。リアリティのある演技をしないと、簡単に見破られてしまうのですから。  ひょっとすると、死に物狂いでついた嘘には、芝居人である我々が求めている究極の演技の形があるのかもしれません。(笑)

 芝居は虚構の世界であり、観客の前で嘘をついているようなものとも言えます。自分を医者と言ったり、殺人犯と言ったり、果ては「空気の妖精」などと言ったりするのですから。それが単なる嘘であると、お客さんにバレてしまって、芝居自体が成立しなくなってしまう。ですから、我々役者は、毎回、命がけで嘘をついているようなものなのです。
 「嘘」から「口」を取ると「虚」。そう、役者は「嘘」をつくのではなく、お客さんの「虚」を衝かなければいけないのです。イコール、それこそが「嘘のない芝居」なのかもしれません。

 日々、こんな訓練をしている役者がつく嘘は、さぞかしバレにくいだろうとお思いになるかもしれません。しかし、物事はそう簡単にはいかないもの。そう、実生活の嘘には十中八九「後ろめたさ」というファクターがあるからです。どんなに上手い役者でも、よほどの悪人でない限り、この「後ろめたさ」が災いして、完璧な嘘をつくことはできないでしょう。
 とある稽古の帰り道、つい飲んで遅くなってしまった一人の役者がおりました。まずいことに彼は家で待つ彼女に「今日は早く帰る」と言っていたのを、すっかり忘れていたのでした。

 「やけに遅かったわね。」
役者「(ギク)稽古でどうしても納得いかないところがあってね、公園で一人稽古をしてきたんだ。」
 「犬並みの嘘ね。また飲んできたんでしょ!」
役者「そ、そんなことあるわけないじゃないか・・。」 
 「こんなにお酒臭けりゃ、誰だって気づくわよ。」
役者「ハッ! ・・ご、ごめんなさい!」

 そう、嘘はバレるから良いのです。きっと・・・。

(2017年春 紅月劇団 石倉正英)

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