Coffee & Cigarette
大学時代、影響を受けた先輩の一人M氏には、実にいろいろなことを教わりました。煙草、酒、珈琲、音楽、ビートニクス、etc・・・。群馬の片田舎で生まれ育った僕には、そのどれもが新鮮で格好良く、そして大人の男の匂いに溢れていました。
そのM氏が語ってくれた中で、なぜかいまだに心に残っているのが「煙草を吸っていれば、いつまでも喫茶店に居られる」という言葉。その真意は、ゆっくり珈琲を冷まし飲みながら物思いに耽りたいとき、煙草をくゆらせていると店の人も他の客も、何ら気を止めないでいてくれるということ。「分煙」という言葉がまだなかった頃の話です。
確かに煙草も吸わず、本も読まずに長々物思いにふけっている客がいたら、何か相当悩みを抱えているのでは、などと邪推を始めてしまうかもしれません。この場合、煙草というアイテムが実に良い効果を発揮して、そういった意識を文字通り「煙に巻いて」くれるのでしょう。
これを聞いた当時の僕は、耽る物思いもないくせに、暇さえあれば喫茶店に行って長々煙草をくゆらせて珈琲をすすったものでした。「形から入る」とはまさにこのこと。次第、考え事をするときには喫茶店に行くようになり、煙草を吸わなくなった今でも、脚本を書く時は喫茶店に行き、美味しい珈琲を傍に置いて、というスタイルが身についてしまいました。
ちなみに「くゆらせる」とは「燻らせる」と書き、その意味は辞書で引くと「ゆるやかに煙を立てる」こと。しかし、煙草と紐づくと、この言葉はその意味だけには留まらなくなって、人差し指と中指とで挟まれた煙草からゆるやかに立ち上る紫煙が、柔らかな風に乗って自分のまわりを取り巻いて、付かず離れず、良い距離感を保って揺蕩うている様を表すような、より深い意味を纏ってくるような思いがします。あたかも、程よいパーソナルスペースを視覚化してくれるような・・・。
その空間の中で男は美味しい珈琲を味わいながら物思いに耽る一人の時間を、何に気兼ねすることなくゆっくり過ごすことができるのです。これをダンディズムと言わずして何と言いましょうか。笑
煙草が電子化されて、他人に迷惑をかけずにニコチンを効率的に摂取する機械と化し、「煙草をくゆらせる」という言葉が死語になりつつある今日、嫌煙者にとってはまったく結構な時代になりましたが、一方で男は煙とともに男としての重要な何かを失っていくような寂しさを感じます。
そんな失われゆくダンディズムへのオマージュとして、故かまやつひろしさんの名曲「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」の一節を。
そうさ、短くなるまで吸わなけりゃだめだ
短くなるまで吸えば吸うほど
君はサンジェルマン通りの近くを歩いているだろう
2019年初春号 紅月劇団 石倉正英
« 久生十蘭 | トップページ | たねのなか 〜4〜 »
コメント