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2019年1月

たねのなか 〜6〜

スピナッツ(夏2018。鷹の雛、飛ぶ技を習う)

*「はい、どうぞ。読みたかったでしょ」
にこにこしながら、義母がどーんと置いてくれたのは、七年分の「SPINNUTS」でした。帰国し、夫の実家に挨拶に行った時のことです。もちろん無我夢中!!で、ページをめくりました。

*「SPINNUTS」スピナッツとは、「羊にまつわるあれこれ」が書かれている雑誌です。羊毛を使った手仕事はもちろん、世界各地の織や、環境に配慮した染色方法など、その内容は、多岐に渡っています。初めてこの雑誌を手に取った時、一房ずつ羊毛が留められていたこと、その手間暇を惜しまない想いに、震えたことを覚えています。それが今回、創刊100号を記念して、「羊の本」という形で、一冊の本にまとまりました。大迫力の内容です。羊のことを通して、地球とつながるための手引きだと思います。

*わたくしごとですが、今から10年以上前、スピンドルの円盤部分だけを集めた展覧会、「紡む(つむ)-紡錘車が語る多胡郡」を見に、群馬まで足を運んだことがありました。
紡ぎの師匠である義母に誘われて行ったそこには、弥生時代~平安時代の遺跡から出た、たくさんの、穴の開いた石が展示されていました。文字が彫られているもの、お花のような絵が彫られているもの。昔の人も、今の人も、道具に対する気持ちの変わらなさや、紡ぐこと、繊維を取ること、原点としての人の営みに打たれたのですが、義母がこの企画展を知ったきっかけも、スピナッツの記事だったそうです。私は外で紡ぐ機会があると、この時の図録をご紹介してきたのですが、まさかそれもスピナッツがきっかけだったとは。(つい、数日前にそのことを知りました)。不思議なご縁を、勝手に感じています。

*そしてそして、その「スピナッツ」の発行者・ポンタさんが、7/28(土), 29(日)、京都からわざわざ、ここ鎌倉に来てくださるそうです!!みなさん、大チャンスですよ!!ポンタさんや、その周りのスタッフのみなさんのおかげで、どれだけ豊かな文化が、日本の中で発酵し、芽を出したのか。先を歩いてくださっているみなさんのおかげで、今がある。私も、自分が今できること、地球に対してできることを、再度、自分自身に問い直したいと思います。そして、この一連の流れを作り出してくださったのは・・。やっぱりカジュには魔女が住んで、いますね(笑)

   

糸紡ぎワークショップ不定期開催してます→「向井毛糸店
心地よく集中できる時間を、ご一緒できたら嬉しいです。

向井  吏恵 (2018年夏号)

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たねのなか 〜5〜

そとつむぎ(新緑の頃2018。雁、北へ帰る)

*最近、外でつむぐのに、はまっています。
外で過ごすのには絶好の、この季節。
鎌倉近辺は、お寺とか、外でぼーっとできるところがたくさんあって、助かります。
スピンドルと羊毛を、かばんにしのばせてお出かけします。
先日は、海つむぎしてきました。

*海でつむぐ時、ぐーんと伸ばした手の先は、空。
砂浜に落ちていた、大きなクラゲ。ひっくり返していた男の子と、すごいね~と目配せしあって。
波音は、聞こえたり聞こえなかったり。集中→無音。
また今にかえってくる。手を大きく伸ばす今、巻き取る今、羊毛を足す今。

ああ、そうか、つむいでいるのは景色そのものなのか、と気がつきました。
糸にとじこめられ、今が形作られる。
反対に、自分はどんどんからっぽに、透明になっていく感じがしました。

*編み物や織物も、手仕事って、本当に大事ですね。
単純なら、単純なほどいい気がします。シンプル大事。
私にとっては、いとつむぎが、バランスを取るための大切な道具です。
頭の中を整理し、頭から出て、身体を感じる。身体を通して、世界とつながる。

小さいけれどパワフルな、古代からの営み。DNAの中に入っているのを、思い出す。
そしてまた今日も、目的のない糸を、ただつむいでいます。

向井 吏恵(つむぎ)  2018年春初夏号

※いとつむぎワークショップ、不定期で開催しています。興味のある方は、ぜひぜひ、ご一緒しましょう!(詳細は、ブログをご覧くださいね)そとつむぎもできたらいいなとか、思っています。

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たねのなか 〜4〜

Amikinoko02

*先日、東京は下町、蔵前にある毛糸屋さん、keitoに行ってきました。
編みキノコ会議という、おもしろそうなお話会に参加するためです。

編み物教室の三代目である、横山さん(ニット男子!)が、文化史を背景に、建築からジブリから、はたまたスターウォーズまで踏まえたうえで、ものづくりや、編み物の未来などについて、縦横無尽に語ってくださる、熱いお話会でした。

江戸時代、編み物は武士の内職だった・・!などというお話も飛び出し(○○藩は編み物がうまい、などという記述も残っているとか)、編み物=女性のものという思い込みも崩れ、その時々に、必要に応じて、変化しているだけなんだなあ~と。

誰のもの、とか、OOでなきゃ、とかの、気がつけないくらい、透明化している思い込み。
全部取っ払えたら、どんなおもしろい世界になるんだろう!なんて思ったり。

*お話会の後、「編みキノコ」の、編み図入りポストカードをいただいてきました。
編み図なしで、「スキニ編ム」を提唱されている横山さん。
簡単に文章で書かれた作り方には、「だいたい何目ぐらい」とか書いてありました。

きっちりと、形や目数が必要なものでは、そうはいかないのかもしれませんが、キノコだから、それでいいのです。ふにゃっとしてる、かわいいキノコができました。

そして、編み図なしの編み物は、想像以上のおもしろさでした。
てきとうに手を動かして、てきとうなところで目を増やし、てきとうなところで減らす。手紡ぎ糸にも通じるような、自由な感覚。

余談ですが、その日、横山さんと、ニットデザイナーをされている方に、つむぎ糸で編んでもらう機会があったのですが、手紡ぎ糸って気持ちいいんだね~というお声もいただき、なんだかとても嬉しかったです。

向井 吏恵(つむぎ)

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Coffee & Cigarette

 大学時代、影響を受けた先輩の一人M氏には、実にいろいろなことを教わりました。煙草、酒、珈琲、音楽、ビートニクス、etc・・・。群馬の片田舎で生まれ育った僕には、そのどれもが新鮮で格好良く、そして大人の男の匂いに溢れていました。

 そのM氏が語ってくれた中で、なぜかいまだに心に残っているのが「煙草を吸っていれば、いつまでも喫茶店に居られる」という言葉。その真意は、ゆっくり珈琲を冷まし飲みながら物思いに耽りたいとき、煙草をくゆらせていると店の人も他の客も、何ら気を止めないでいてくれるということ。「分煙」という言葉がまだなかった頃の話です。

  確かに煙草も吸わず、本も読まずに長々物思いにふけっている客がいたら、何か相当悩みを抱えているのでは、などと邪推を始めてしまうかもしれません。この場合、煙草というアイテムが実に良い効果を発揮して、そういった意識を文字通り「煙に巻いて」くれるのでしょう。

 これを聞いた当時の僕は、耽る物思いもないくせに、暇さえあれば喫茶店に行って長々煙草をくゆらせて珈琲をすすったものでした。「形から入る」とはまさにこのこと。次第、考え事をするときには喫茶店に行くようになり、煙草を吸わなくなった今でも、脚本を書く時は喫茶店に行き、美味しい珈琲を傍に置いて、というスタイルが身についてしまいました。

 ちなみに「くゆらせる」とは「燻らせる」と書き、その意味は辞書で引くと「ゆるやかに煙を立てる」こと。しかし、煙草と紐づくと、この言葉はその意味だけには留まらなくなって、人差し指と中指とで挟まれた煙草からゆるやかに立ち上る紫煙が、柔らかな風に乗って自分のまわりを取り巻いて、付かず離れず、良い距離感を保って揺蕩うている様を表すような、より深い意味を纏ってくるような思いがします。あたかも、程よいパーソナルスペースを視覚化してくれるような・・・。
  その空間の中で男は美味しい珈琲を味わいながら物思いに耽る一人の時間を、何に気兼ねすることなくゆっくり過ごすことができるのです。これをダンディズムと言わずして何と言いましょうか。笑

 煙草が電子化されて、他人に迷惑をかけずにニコチンを効率的に摂取する機械と化し、「煙草をくゆらせる」という言葉が死語になりつつある今日、嫌煙者にとってはまったく結構な時代になりましたが、一方で男は煙とともに男としての重要な何かを失っていくような寂しさを感じます。

 そんな失われゆくダンディズムへのオマージュとして、故かまやつひろしさんの名曲「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」の一節を。

そうさ、短くなるまで吸わなけりゃだめだ
短くなるまで吸えば吸うほど
君はサンジェルマン通りの近くを歩いているだろう

2019年初春号 紅月劇団 石倉正英

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久生十蘭

 演劇初心者から役者の方まで、幅広いメンバーで毎年取り組んでいる紅月劇団ワークショップ。その発表公演が10月13日〜14日にかけて我らがホームグラウンド「西御門サローネ」で執り行われました。今年の演目は「乱歩と十蘭」。江戸川乱歩と久生十蘭(ひさおじゅうらん)の作品を原作としたオムニバス形式の公演でございました。
  ということで前回のテアトロ・カジュでは乱歩について書きましたので、今回は「十蘭」について触れてみたいと思います。

  久生十蘭は乱歩と同時期、大正から昭和にかけて活躍した作家で、乱歩より8歳年下。そして乱歩より8年早く世を去った、生年も没年も8年差という、ちょっと奇妙な縁の二人です。
  その著作はユーモア小説からミステリー、ノンフィクションと多岐にわたり、その博識と技巧的作品から「小説の魔術師」とも呼ばれ、「ジュウラニアン」という熱狂的な愛読者を生み出しました。また、パリに遊学中はレンズ工学と演劇を学び、文学座の立ち上げにも関わるなど、演劇の世界にも身を置いていた人。さらに晩年住んでいたのが鎌倉の材木座、しかも今僕が住んでいる家のすぐ近くだったそうで、大学時代、機械工学科に席をおきつつ演劇に目覚めた僕としては、勝手ながらなんともいえぬ親近感を覚えてしまう人です。

僕個人の関わりとしては、今回のワークショップで取り上げた傑作短篇「ハムレット」や「湖畔」を一時間かけて読むという冒険的な朗読会を開いたり、「生霊」を題材とした「GHOST」という芝居を作ってみたりと、ひとかたならぬご恩を受けております。時を超えた「ご近所のよしみ」とでも言いましょうか。笑
  なんとも無駄のない歯切れの良い文章で、その発想力、展開力には舌を巻きます。まだ読まれたことがない方は、上記三作品から始められることをお勧めします。読了後はジュウラニアンの仲間入り必至です。

 面白いのは戦中の彼の活動です。厳しい検閲に影を潜めた乱歩と対照的に、十蘭は大政翼賛会の文化部に入ったり、海軍報道班員として従軍しつつ、大日本帝国賛美的作品を書いていきます。その時代の作品は今でも読むことができますが、そういった表現はされているものの、それを隠れ蓑にして「書く」という衝動や欲求を満たしつつ、更なる芸術的探求、進化を続けていたことがよく分かります。あたかも、ナチスの命を受けてベルリン五輪を撮った稀代の映像作品「オリンピア」の監督レニ・リーフェンシュタールのように・・・。ちなみにレニは戦後、ナチスの片棒を担いだ廉でドイツから追い出されることになります。   久生十蘭にしても、そうせざるを得ない状況というものがあったにせよ、軍国主義に与した行動を嫌悪する向きもあるでしょう。ただ、彼らが何に忠実だったのかといえば、国や軍などではなく「芸術」に忠実だったのではないかと僕は思います。

  終戦の翌年、真の表現の自由を手に入れた十蘭は、「ハムレット」を発表した後、材木座に移り住んで、「十字街」、「鈴木主水」(直木賞)、「母子像」(ニューヨーク国際短篇コンクール第一席)といった名作を次々と生み出して行くのでした。

2018年秋冬号 紅月劇団 石倉正英

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乱歩という免罪符

 ひょんなきっかけから、10月に予定している今年のワークショップ公演は、江戸川乱歩を取り上げてみようということになりました。そんなで久しぶりに乱歩を読み返してみたらば、あらまあ、今更ながらにエロ、グロ、猟奇のオンパレード。覗き魔にストーカー、猟奇殺人・・・本能や欲望に忠実に?生きる人々を肯定して余りある作品だらけ・・・。にも関わらず、乱歩の人気は老若男女を問わず、生誕125年を迎えようという今も衰えることを知らないようです。
  なぜ、乱歩の作品はかくも異常なのに、多くの常識的な人々にも受け入れられたのでしょうか。

人間が誰しも原罪のように持っている「悪」を求める本能ゆえでしょうか。確かに人は凄惨な連続殺人事件に胸を痛めるとともに、ワクワクする楽しみに似た感情をも併せ持つ。かくいう僕もその一人。悲しいかな、人間とはそういう生き物なのかもしれません。
  しかし、そうかと言って、いかに何でもありの芝居の世界であろうとも、リアルな猟奇的シーンなどというものは中々描けるものではありません。目の当たりにすると引いてしまう一線というのがあって、どうしても安全側で作ってしまうのが人情というもの。よしんば、頑張ってその一線を越えたとしても、そんなものを見せた日には、お客様に引かれること請け合い。

  ところが、なぜか「原作・江戸川乱歩」と銘打たれると、これが途端に免罪符を与えられたかのように、双方安心して楽しめてしまうということがままあります。「乱歩だからね」「これくらいは出て当然だろう」的な・・・これはいったい何故なのでしょうか。
  江戸川乱歩というビッグネームがそうさせる? 確かに。また、そこには文学という、芸術的昇華の要素もあるでしょう。しかし、何より僕が強く感じるのは、それらの異常な登場人物に対する乱歩の優しいまなざしです。それがそういった人物や行為をある種許してしまう効果をもたらすような気がするのです。側から見るとその行為自体は異常だけれど、それに至るプロセスには誰しもちょっとした共感を覚えてしまったり、ともすれば羨ましさすら感じてしまう。乱歩マジックとでも言いましょうか。

  ともあれ、乱歩はそういった異常者の中にも我々との共通点や、長所を見出せる特異な作家であったと言えるでしょう。この感覚は、人間にとってとても大切なもののような気もします。子供の頃夢中になって「少年探偵団シリーズ」を読みふけっていた時に感じた絵もいわれぬ後ろめたさ、大人の陰の世界を垣間見たようなイケナイ感覚・・・。
  「乱歩の変態作品など子供に読ませてはいけない」というエライ先生もいるようですが、僕は真っ向反対意見。逆に乱歩作品のような確かな「陰のバイブル」に触れさせることこそ、異質なものをも理解し認められる、戦争やテロや悪質な宗教になど加担しない、広くて深い人間性を育むのだ、とは少々言い過ぎでしょうか。笑

うつし世は夢、夜の夢こそまこと・・・。
  このカジュ通信が皆さんのお手元に届く頃(2018年夏)、大乱歩は53回目の命日を迎えます。

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紅月劇団初のイケナイ?シーン(「grotesque 〜一休と地獄太夫〜」より)

2018年夏号 紅月劇団 石倉正英

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約束はお約束

「一生君のことを愛し続ける」「二度とやりません」「一生のお願いだから」・・・。
「約束は破られるためにある」と言ったのは、アリストテレスでしたでしょうか、はたまた麻生太郎副総理? そう、この世で交わされる約束の7〜8割は、結果、破られているような気がします。「花は散るからこそ美しい」的な論理で考えれば、約束は破られるからこそ、儚くも美しいものにもなり得るような気もします。
 しかし皆さん、絶対に破られない約束のカテゴリーがあるというのをご存知ですか? 約束の頭に「お」をつけてみてください。そう、「お約束」。それこそは、成立したが最後、絶対に果たされる約束だと言っても過言ではないでしょう。しかも、得てしてそれは言葉による契約でないことが多いのです。

  例えば、待ち合わせ場所に30分も遅れてきた友人Cがありました。待っていたAとBの二人は呆れながらもこんな会話を交します。
  A「Cの奴、絶対『お、早いねぇ』って言うよ」 B「ああ、悪びれもせずにね」
  C(登場し笑顔で)「お、早いねぇ」  A・B「やっぱり(笑)」
  この場合、CとA・Bとの間には事前の言葉による約束はありませんが、暗黙の「お約束」が成り立っていて、かつ、裏切られることなく果たされたがゆえに、30分の遅刻を大目に見てもらえた、という寸法です。
  これは、いわば「経験の積み重ね」が約束の役割を果たしているわけですが、経験の積み重ねがなくとも「お約束」を成立させるのが芝居というもの。

  例えば、皿と箸を出して、役者が食べる真似をすれば、お客さんも、そこに料理があるものと思ってくれる。人を刺すシーンで、本当に刺さなくても役者が迫真の演技をすれば、思わず「うわ!」と声を上げてしまう。演技的な技術はもちろんですが、そこにないものを見たり、あたかも実際に行われたかのように感じるのはお客さんの心ですので、そこには知らず知らず、演じ手との間に「お約束」が交わされているのです。
  この約束のおかげで、芝居にCGは必要なくなるのです。逆に言えば、CGで処理しないからこそ、芝居は面白いのです。今風に言えば、お互いの心の中に共通の仮想現実が展開される、とでも申しましょうか・・・。

  ある作品のラストで、主人公が「溶けてなくなる」とト書きに書いたことがありました。それをどう表現するかが、我々の手腕であり楽しみであったわけです。まだ見ぬお客さんとどんな「お約束」を交わそうか・・・。

  さて、本番でそれはどんな形で演じられたと思いますか? その答えは・・実際の舞台を見てのお楽しみということで(笑)。
  そう、それは決して、言葉では言い表せない、まさにそれを目にした人との、その場でしか成立し得ない特別な「約束」なのでございます。

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この後、見事に溶けて無くなります(「テンペスト」より)

(2018年春初夏号) 紅月劇団 石倉正英

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たねのなか 〜1〜

*お久しぶりです。以前、「NZ生活」というものを書かせて頂いていた、向井と申します。

みなさま、お元気ですか?たなか先生からお声をかけて頂き、またこのような機会を頂くことになりました。
また、おつきあい頂けたら嬉しいです。

*私は、約7年住んでいた、ニュージーランドから昨年の夏に帰国し、今は日本での生活を楽しんでいます。おかげさまで、英語を使う仕事をみつけることもでき、かねてからやりたいなと思っていた「糸紡ぎ」を広めるためのワークショップなども、ぼちぼちやらせて頂いています。

*それにしても、冬でも10℃前後、夏でも25℃前後という、過ごしやすいけれど、どこか季節がぼんやり過ぎていく印象のNZから戻ってきた自分には、この地のくっきりとした季節感には驚くばかりです。いまいち季節に乗りきれていないというか、おくれを取っているような気がしつつも、今、今、移り変わって行く、自然が見せてくれる大スペクタクルを堪能しています。

*じりじりと焦げ付きそうな夏の熱さを越え、キンモクセイの香りが漂い、リスと柚子の取り合いをしているうちに、光明寺のお十夜さん(のおいしい大判焼き)。さまざまな種類の落ち葉を楽しんでいるうちに、息が白くなり、手袋とマフラーの出番。今年は、雪まで降りましたね!そして、4月の声を聞いた途端に、この桜の面々!!ほんとに、なんてめまぐるしく、なんて楽しいんだろ~!!先ほど、草むしりをしましたが、その時期それぞれの、“雑草”の、みなさまたちのなつかしいこと。久しぶり、元気だった?と思わず語りかけてしまいました。小さいドクダミも出ていましたよ。

*そして、この日々の移り変わりのように、自分の身体の細胞や血液も、自然のサイクルに溶け込んで、どんどん生まれ変わっているのだなと実感します。そもそも、夜、毎日眠りについて、翌朝目が覚めるって、それだけですごいことだな~と思ったりもします。

P.S. ブログを新しく始めました。もしよろしかったら、ご覧下さい♪
糸紡ぎのWSなどについても、書いています。どうぞ、よろしくお願いいたします。
「たねのなか」

2017年・春
向井 吏恵(つむぎ)

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