乱歩という免罪符
ひょんなきっかけから、10月に予定している今年のワークショップ公演は、江戸川乱歩を取り上げてみようということになりました。そんなで久しぶりに乱歩を読み返してみたらば、あらまあ、今更ながらにエロ、グロ、猟奇のオンパレード。覗き魔にストーカー、猟奇殺人・・・本能や欲望に忠実に?生きる人々を肯定して余りある作品だらけ・・・。にも関わらず、乱歩の人気は老若男女を問わず、生誕125年を迎えようという今も衰えることを知らないようです。
なぜ、乱歩の作品はかくも異常なのに、多くの常識的な人々にも受け入れられたのでしょうか。
人間が誰しも原罪のように持っている「悪」を求める本能ゆえでしょうか。確かに人は凄惨な連続殺人事件に胸を痛めるとともに、ワクワクする楽しみに似た感情をも併せ持つ。かくいう僕もその一人。悲しいかな、人間とはそういう生き物なのかもしれません。
しかし、そうかと言って、いかに何でもありの芝居の世界であろうとも、リアルな猟奇的シーンなどというものは中々描けるものではありません。目の当たりにすると引いてしまう一線というのがあって、どうしても安全側で作ってしまうのが人情というもの。よしんば、頑張ってその一線を越えたとしても、そんなものを見せた日には、お客様に引かれること請け合い。
ところが、なぜか「原作・江戸川乱歩」と銘打たれると、これが途端に免罪符を与えられたかのように、双方安心して楽しめてしまうということがままあります。「乱歩だからね」「これくらいは出て当然だろう」的な・・・これはいったい何故なのでしょうか。
江戸川乱歩というビッグネームがそうさせる? 確かに。また、そこには文学という、芸術的昇華の要素もあるでしょう。しかし、何より僕が強く感じるのは、それらの異常な登場人物に対する乱歩の優しいまなざしです。それがそういった人物や行為をある種許してしまう効果をもたらすような気がするのです。側から見るとその行為自体は異常だけれど、それに至るプロセスには誰しもちょっとした共感を覚えてしまったり、ともすれば羨ましさすら感じてしまう。乱歩マジックとでも言いましょうか。
ともあれ、乱歩はそういった異常者の中にも我々との共通点や、長所を見出せる特異な作家であったと言えるでしょう。この感覚は、人間にとってとても大切なもののような気もします。子供の頃夢中になって「少年探偵団シリーズ」を読みふけっていた時に感じた絵もいわれぬ後ろめたさ、大人の陰の世界を垣間見たようなイケナイ感覚・・・。
「乱歩の変態作品など子供に読ませてはいけない」というエライ先生もいるようですが、僕は真っ向反対意見。逆に乱歩作品のような確かな「陰のバイブル」に触れさせることこそ、異質なものをも理解し認められる、戦争やテロや悪質な宗教になど加担しない、広くて深い人間性を育むのだ、とは少々言い過ぎでしょうか。笑
うつし世は夢、夜の夢こそまこと・・・。
このカジュ通信が皆さんのお手元に届く頃(2018年夏)、大乱歩は53回目の命日を迎えます。
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紅月劇団初のイケナイ?シーン(「grotesque 〜一休と地獄太夫〜」より)
2018年夏号 紅月劇団 石倉正英
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