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2020年7月

♪NAOMUSICA♪〜オンライン〜

カジュ通信 2020年 春・初夏号

新型コロナウィルス感染拡大により、音楽教室も様々なところでオンラインレッスンの形を取るようになってきました。
わたしの教室も準備をしている最中です。

細かい口の動き、顔の表情だけでなく、全身を使ってレッスンするので画面におさめるために試行錯誤しています。
とは言え、今の時代はオンライン授業というのが手軽にできることに本当に驚きました。

わたしの最近のおうち時間はYouTubeでお気に入りの音楽動画を見たり、レッスン用のピアノ伴奏を録音したり、懐かしい歌を歌ってみたり。
しかし、生徒たちと「今日はいい天気ですね」「学校でこんなことがあったよ」と、お会いしてちょっとした会話をするのがどれだけ自分が元気付けられていたか。日々感じます。

1日でも早くこの状況が終息し、いつもどおりのレッスンができるよう願うばかりです。

 

くのきなおみ

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♪NAOMUSICA♪〜ベートーヴェンの第9〜

2020年新春号


先日、久しぶりにベートーヴェンの第九を聴きに行きました。大学生の時に読売交響楽団の演奏で合唱に出演し、本番は東京のホールで数日あり、テレビ放送もあったので当時の合唱授業はそれは厳しいものでした。
大学時代はイタリアものばかり勉強していた自分にとってはドイツ語が難易度高い。。合唱の先生は「前の人の頭に唾を飛ばすくらい深く発音しなさいっ!」なんて指導することも(笑)。日本語にない発音に苦労しました。
わたしのお勧めは第二楽章♪そして合唱のある第四楽章も、バリトンやテノールのソロは本当に美しいメロディーになっています。
もちろん迫力ある合唱のハーモニーも素敵です。
日本では第九といえば年末ってイメージになっていますが、普段から聴いていただきたい楽曲です。



くのきなおみ

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♪NAOMUSICA♪〜夏だ祭りだソーランソーラン〜

2019年夏号


お祭りの季節がやってきました。私が所属するお囃子、池子神明社のお祭りも先日行われましたが、今年は梅雨の影響でお神輿やお囃子の山車が腸内を回る本祭りは残念ながら中止となってしまいました。
毎年7月初めにお囃子を演奏して「夏が来たー!」という気分になるので、今年はなんだか体が夏モードに切り替わっていないような感じです。
宵宮では子ども達がステージで出し物をしてくれるのですが、今年は地元の小学校で毎年運動会で踊るという南中ソーランを披露してくれました。一般的なソーラン節よりもアップテンポなので踊りも上下の動きがたくさんあり、ヒップポップ並みに激しいです。
「どっこいしょどっこいしょ!」や「ソーランソーラン!」の大きな掛け声もあり、沢山で踊るとすごくカッコ良くて子ども達がキラキラしていました!
お囃子の演奏は少なかったですが、ゆっくりと演芸を見られたのも良い思い出になりそうです。

くのきなおみ


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たねのなか 〜13〜

2020年 春・初夏号

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13

むかい りえ

 

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たねのなか 〜12〜

2020年 新春号

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12_20200729172601  

    むかい りえ

 

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たねのなか 〜11〜

2019年 秋・冬号

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11

むかい りえ

 

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たねのなか 〜10〜

2019年 夏号

カジュに集うみなさま、こんにちは。お元気ですか?みなさまのお手元に届くころには、きっと梅雨も明けていますね(長かったですね!)。
さて、今回は、ここ最近はまっていることについて書きたいと思います。それは簡単な掃除の方法で、きっとカジュに集うみなさまはお掃除の大ベテランだろう・・と思いつつも、ちょっとおもしろい玄関の掃除の仕方について、書かせて頂きます。

玄関掃除って、通常は、靴を外に出し、軽くほうきで掃いたのち、三和土を固く絞った雑巾で水拭き・・だと思いますが、この方法はそのあとがポイントでして、最後の仕上げとして、「靴の裏」まで拭くのです。
もともとは、こんまりさん(近藤麻理恵さん)の本からのアイデアで、恥ずかしながら私は、考えたこともなかったのですが、やってみたらこれが心地いい!なんだかさっぱりとして、はまりました。
今では日課となり、靴に対しての感謝はもちろん、家人ともども、毎日元気で出かけられることが本当にありがたいなと思いつつ、ふきふきしています。

むかい りえ

 

 

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手 の 力

20200723-101430 本番前の儀式(「FIRE!WORKS」より)

つい2〜3日前に馴染みのイタリアン・レストランでランチをしてお支払いをした時のこと、お釣りを受け取る際にお店のママさんと手と手が触れ合ったのでした。
その手が思いの外柔らかく心地の良い温かさで、なんとも彼女の感謝の気持ちがダイレクトに伝わってきたようで嬉しかった・・・と言っても恋の話をしようというのではありません。
この時、久しぶりに他人の手に触れたことに気がついたのでありました。

昨今、ソーシャルディスタンスというエチケットが根付いて以来、自然、他人と距離を取るようになって、握手はおろか人と会うのもWEBでというご時世。
こんな状態になってみると、逆に手の持つ力というものを改めて考えてみたくなりました。

昔流行ったハンドパワーじゃありませんが、手からは確かに何かが出ているような気がします。
「手当て」という言葉は、手を当てて怪我や病気を治したことから来ているという俗説は間違いで、本来「処置」という意味があるからなのだそうですが、そう言われても、この俗説は本当に実感するところで、お腹が痛いと思わず手を当て、じっと我慢していると次第に痛みが和らいで来たりしますよね? 
母が子に、夫婦や恋人がパートナーに手を当ててあげれば効果覿面。そこには相手を思いやる心の力が加わって、手から癒しのパワーが溢れ出て来るのでしょう・・・と信じたい。

神社仏閣に行って手を合わせる。合掌。
人はそこに願いや悩み、感謝、祈りを重ねますが、そこから得られる最大のご利益は、ひょっとすると神仏のご加護ではなくて、両の手の平から溢れ出る何かが合わさることで、心が一つにまとまることかもしれません。
答えやそれを叶えるために為すべきことは、本当は自分自身がよく分かっていて、神仏を前に手を合わせることで、それを整理したり直視できるようになるような気がします。

僕らが芝居の本番前に必ず行う儀式があります。円陣を組んで互いに手を繋ぎ合い、1分ほど目を閉じて深く呼吸するという儀式。これによって皆の心が開かれ、互いにパワーを送り合い、一つにまとまって本番に臨めるのです。
もっとも、むさ苦しくキャラの濃い男優が大半を占める我が劇団では、手に汗した男同士が手を繋ぐのには本番以上の覚悟が要るかもしれませんが・・・。

2020年春・初夏号 紅月劇団 石倉正英

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花 火

20200723-101249

今年は東京オリンピックと重なることもあって、各地で花火大会が中止になっているようです。我が鎌倉も例に漏れず、早々に中止宣言が出されました。なんとも寂しい限りです。花火といえば夏の風物詩。老若男女を問わず、いまだ一緒になって楽しめる催しは他にないのではないでしょうか。

昨年12月、我が紅月劇団恒例の年末公演を行いました。
麻心という由比ヶ浜を見下ろすカフェで毎年行っている年末公演。何を隠そう、今回のテーマは「花火」でした。12月に花火?と訝しむ向きもあることでしょう。そう、この季節外れのテーマを選ぶに至ったのには、なんとも不思議なご縁、神仏のお導きともいえるものがあったからに他なりません。

夏も終わって、朝晩だいぶ涼しさが増して来た9月下旬、今年の年末公演は何をやろうか、と麻心に足を向けました。毎年こんな風に麻心を訪ねると、なにがしかのヒントが得られるのですが、今回は向かう道すがら、やおら「ドドーン!!」と爆音が聞こえて来ました。なんと、こんな季節外れに逗子の花火大会が開催されていたのでした。
案の定(失敬)、お客さんが誰もいない麻心の窓際の席に腰を下ろすと、海越しに花火がよく見えます。思いもよらぬ特等席で、麻心のスタッフと一緒にしばし季節外れの花火を堪能したのでしたが、それは、途中マスターに誘われて外に出て花火を見始めた時に起こったのでした。

その時、ふとマスターがこうつぶやきました。「花火をみるなら、本当は寒い時期の方が良いんだよね」と。確かに空気が澄んで夏よりも綺麗に見えるかもしれない。
しかしその時、僕はまったく逆のことを考えていたのでした。

一発一発終わるたびに、なぜだか絵もいわれぬ寂寥感に襲われていたのでした。それは僕も含めてむさ苦しい男数人で寂しく見ていたせいもあったでしょう。しかしそれ以上に、花火が夜空に花開く美しさよりも、消えて無くなっていく瞬間の方に心を持っていかれるように思えたのでした。それは涼しさと無縁ではないように僕には思えました。

 花火師が丹精込めて作った花火は、一花咲かせると、ものの十数秒で消えて無くなっていくのだという厳しい現実を目の当たりにした気分だったのでした。夜空を舞台に花開くや否や消えていく・・・それはとても芝居に似ているようで、なんとも自分のやっているものへの切なさを覚えてしまった瞬間でもありました。裏を返せば、それこそが花火や芝居の素晴らしいところのはずなのですが。

かくして、この「一瞬で無くなる」切なさが年末公演の大きなテーマとなったのですが・・・こんな風にセンチメンタルな気分にさせられることを考えると、やはり花火は夏の暑い盛り、大勢の中で汗をかきかき、「たまや〜」と叫びつつ見る方が良いのかもしれない、などと思ったりもしたのでした。もちろん、傍に浴衣美人がいるに越したことはありませんが・・・。

 

2020年新春号 紅月劇団 石倉正英

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とうもろこし泥棒

20200723-100659


 子供の頃、親父が大事に育てた畑のとうもろこしを無情にも盗んでいく輩がありました。これは明朝採ったらさぞかし美味しいだろうと思って、あえて残しておいたとうもろこしが、翌朝採りに行くと無い! ここぞというタイミングを見計らって盗んでいくとうもろこし泥棒。その手口は大胆にして華麗、実に鮮やかなものでした。なんとか尻尾を捕まえてやろうと、まだ夜が明けぬうちに畑に行ってみると、なんとその犯人はタヌキだったのでした。日々繰り返されていたタヌキと親父の大攻防戦。親父にとっては「待ってしまった」がための連戦連敗、さぞ悔しいことだったと思いますが、その美味しさに舌鼓を打つタヌキの顔を想像するに、なんともほっこりとして、可笑しくて笑ってしまったという思い出があります。

さて、今年も半年間の演劇ワークショップが終わりました。芝居初心者も芝居の質を高めたいベテランも分け隔てなく参加でき、一緒になって一つの舞台を作りあげていくという取り組みも早6年目。しかも今回の発表公演会場はカジュ・アート・スペースで、この空間の素晴らしさを再認識した公演でもありました。
毎年、ワークショップでは僕自身たくさんの気づきが得られるのですが、今回とても実感したのが「待つ」ということでした。そもそも芝居作りは「気づくこと」と思っているのですが、配役が決まってから数ヶ月、一人一人その登場人物と向き合って生活し、手を取り合って稽古場に入っていくことを繰り返していくうちに、幾度と無い気づきを経て芝居が出来上がっていく。それは役者の経験年数や上手い下手、センスによって質も量も様々ですが、人それぞれその経験値やタイミングでしか得られない気づきというものが確かにあって、それが浅かろうが深かろうが、いずれも当人にとっては鳥肌もの。それらが寄せ集まって、本番の一瞬一瞬に生きる時、舞台がキラキラと輝くのです。
今回新たに参加した人にはとても初々しいキラキラがあり、6年目の人には様々な色や形をしたキラキラがあって、昨年の公演よりもさらに素晴らしい舞台が出来上がりました。

この気づきは他人から教えられるものではなく、あくまでも役者本人の腑に落ちないと意味がないもの。腑に落ちないうちに指示されるがままやっている芝居というのはとても見られたものではありません。それは演出や相手の役者から投げられたボール、全く別のシーンや日常の生活の中のちょっとした出来事などなどをきっかけとして、いつ転がり込んでくるか分からないものなのです。
今回僕の中でとても明確になったのは、皆がこの気づきを得られるまで最善を尽くしてただ待つこと、それこそが僕の仕事なんだということでした。毎年新しい人を迎えるという6年間のワークショップの場が知らず識らず僕の中にその耐力を醸成してくれたのでしょう。その作業はけっして急いではいけない、安直に答えを与えたくなる気持ちを必死に抑える、実にじれったく忍耐力を要する仕事ですが、そうこうしているうちに、僕らが未だ探求して余りある「本番でいかに自由になれるか」という課題にまで、手をつけ始めた人も出てきたのでした。それは僕にとってとても驚くべきことでした。

毎年ワークショップが終わると、折角ここまで育てた役者が他に取られてしまわないだろうかなどという愚かな考えが頭を巡るのですが、たとえ、親父のとうもろこしのようにタヌキに盗られたっていいじゃないか。タヌキがその味にビックリして病みつきになるくらいの役者をたくさんこしらえるべく、来年も大いに待ってやるぞ、と自分に言い聞かせるのでした。

2019年秋・冬号 紅月劇団 石倉正英

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Nevermore

20200723-95118

 先日の公演「ラ・フォンテーヌの寓話」の中で「カラスとキツネ」という作品を作りました。間抜けなカラスとキツネ、どちらがこの世界を的確に言い表せるかを競うというお話で、様々な美辞麗句を並べるキツネに対し、カラスはただひたすら「Nevermore」という言葉で応戦するという内容。僕が演じたのはカラスの方で、セリフが一つしかない、とても楽な役のはずだったのですが・・・。

この「Nevermore」という言葉には元ネタがあって、それはかのエドガー・アラン・ポーの名作「大鴉」の中で、恋人をその死によって失った主人公と窓辺に飛んできた大鴉が会話に似たやりとりを交わすのですが、主人公が何を問いかけてもカラスは「Nevermore」の一点張りで応じるのです。

「Nevermore」という言葉は不思議な言葉で、本物のカラスが発語したら面白い響きになりそうですが、日本語に訳すとなんともしっくりこない。「これ以上ない」「二度とない」「最早ない」・・・どの訳を読んでも「never」と「more」という異質な二つの単語を双方とも満足に言い表せていない感があります。いったい、この言葉でポーは何を示そうとしたのでしょうか。

実は、今回僕が演じた役の中でもっとも苦労したのがこのカラスだったのでした。
「Nevermore」という言葉自体が難解な上に、何に対してもこの一語で応じることの難しさ。下手な意味や意図を乗せた途端に、その世界観は崩壊していく。では何も考えずにやればいいのかというとそれも違う・・・。まるで、言語という茫漠たる海に、一艘の小舟を漕ぎ出すような、そんな不案内な心許なさを感じるのと同時に、言葉というものの成り立ちを垣間見た気もいたしました。

実際のカラスは鳥の中で最も頭が良く、一説には49の言葉を操るのだそうです。「カーカーカー」と鳴くと「ここに美味しい食べ物がある」という意味、「カッカッカッ」と鳴くと「危険が迫っている」という意味なのだそうです。彼らはこれらの言葉を駆使して、意地悪をした人間の情報を共有し、仕返しをすることもあるのだそう。お気をつけあれ。ん? この前、立て続けに2回もフンを落とされたのはそのせいだったのか!?
一方、背景に同化するために体色を変えると思われていたカメレオンは、最近の研究では、その変幻自在の体色を会話にも使っているとのこと。赤い色になると相手に怒っていることを伝え、喧嘩に負けると茶色になって敗北・服従を示すのだそう。色で会話するなんて、なんともお洒落な言葉ではありませんか。

さて、カラスのセリフ「Nevermore」ですが、これを題材にした絵をゴーギャンが描いています。晩年の大作の一つで、かつてロンドンに行った折、コートルード美術館でその実物を見る機会を得ました。今になって思うと、これほど「Nevermore」という言葉を体現した作品は他にないのではないか・・・。それがなんとこの秋、上野にやってくるとのこと。ご興味あれば、是非ご覧になってみてください。



2019年夏号 紅月劇団 石倉正英

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