« Nevermore | トップページ | 花 火 »

とうもろこし泥棒

20200723-100659


 子供の頃、親父が大事に育てた畑のとうもろこしを無情にも盗んでいく輩がありました。これは明朝採ったらさぞかし美味しいだろうと思って、あえて残しておいたとうもろこしが、翌朝採りに行くと無い! ここぞというタイミングを見計らって盗んでいくとうもろこし泥棒。その手口は大胆にして華麗、実に鮮やかなものでした。なんとか尻尾を捕まえてやろうと、まだ夜が明けぬうちに畑に行ってみると、なんとその犯人はタヌキだったのでした。日々繰り返されていたタヌキと親父の大攻防戦。親父にとっては「待ってしまった」がための連戦連敗、さぞ悔しいことだったと思いますが、その美味しさに舌鼓を打つタヌキの顔を想像するに、なんともほっこりとして、可笑しくて笑ってしまったという思い出があります。

さて、今年も半年間の演劇ワークショップが終わりました。芝居初心者も芝居の質を高めたいベテランも分け隔てなく参加でき、一緒になって一つの舞台を作りあげていくという取り組みも早6年目。しかも今回の発表公演会場はカジュ・アート・スペースで、この空間の素晴らしさを再認識した公演でもありました。
毎年、ワークショップでは僕自身たくさんの気づきが得られるのですが、今回とても実感したのが「待つ」ということでした。そもそも芝居作りは「気づくこと」と思っているのですが、配役が決まってから数ヶ月、一人一人その登場人物と向き合って生活し、手を取り合って稽古場に入っていくことを繰り返していくうちに、幾度と無い気づきを経て芝居が出来上がっていく。それは役者の経験年数や上手い下手、センスによって質も量も様々ですが、人それぞれその経験値やタイミングでしか得られない気づきというものが確かにあって、それが浅かろうが深かろうが、いずれも当人にとっては鳥肌もの。それらが寄せ集まって、本番の一瞬一瞬に生きる時、舞台がキラキラと輝くのです。
今回新たに参加した人にはとても初々しいキラキラがあり、6年目の人には様々な色や形をしたキラキラがあって、昨年の公演よりもさらに素晴らしい舞台が出来上がりました。

この気づきは他人から教えられるものではなく、あくまでも役者本人の腑に落ちないと意味がないもの。腑に落ちないうちに指示されるがままやっている芝居というのはとても見られたものではありません。それは演出や相手の役者から投げられたボール、全く別のシーンや日常の生活の中のちょっとした出来事などなどをきっかけとして、いつ転がり込んでくるか分からないものなのです。
今回僕の中でとても明確になったのは、皆がこの気づきを得られるまで最善を尽くしてただ待つこと、それこそが僕の仕事なんだということでした。毎年新しい人を迎えるという6年間のワークショップの場が知らず識らず僕の中にその耐力を醸成してくれたのでしょう。その作業はけっして急いではいけない、安直に答えを与えたくなる気持ちを必死に抑える、実にじれったく忍耐力を要する仕事ですが、そうこうしているうちに、僕らが未だ探求して余りある「本番でいかに自由になれるか」という課題にまで、手をつけ始めた人も出てきたのでした。それは僕にとってとても驚くべきことでした。

毎年ワークショップが終わると、折角ここまで育てた役者が他に取られてしまわないだろうかなどという愚かな考えが頭を巡るのですが、たとえ、親父のとうもろこしのようにタヌキに盗られたっていいじゃないか。タヌキがその味にビックリして病みつきになるくらいの役者をたくさんこしらえるべく、来年も大いに待ってやるぞ、と自分に言い聞かせるのでした。

2019年秋・冬号 紅月劇団 石倉正英

« Nevermore | トップページ | 花 火 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« Nevermore | トップページ | 花 火 »