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2021年7月

紙芝居師なっちゃん! 13

カジュ通信 2021年 夏号

 

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紙芝居師なっちゃん 12

カジュ通信 2020年 春・初夏号

 

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紙芝居師なっちゃん! 11

カジュ通信 2021年 新春号

 

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紙芝居師なっちゃん! 10

カジュ通信 2020年 秋・冬号

 

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アン・ブーリン

20210727-195120 アン・ブーリン(1501-1536)

 このご時世にも関わらず、大変ありがたいことに今まで面識のなかった団体から脚本の仕事をいただきました。テーマはアン・ブーリン。アン・ブーリンというのは16世紀のイギリスはイングランド王・ヘンリー8世の二番目の王妃で、エリザベス1世の母親です。

 ヘンリー8世とは、生涯六人もの妻を持った傲慢にして色魔、欲望のままに生きたと言われる王。エリザベス1世とは、イングランド史上二人目の女王で、生涯独身を貫き、無敵艦隊と言われたスペインを破り、イングランドを超強国に仕立て上げたツワモノ。この超個性的な二人の人物ではなく、あえてアン・ブーリンを取り上げるとは、実に渋い企画でございます。そんなでアン・ブーリンを紐解いてみると、これがまた波乱万丈の生涯なのでした。

 10代の頃、新興貴族であった父の命でフランス宮廷の侍女となったアン・ブーリンは、持ち前の知性と感性で、音楽やダンスに秀で、プロテスタントをはじめとする当時最先端の知識や思想をも吸収し、魅力的なレディとなってイングランドに帰国します。首に大きなアザがあり、右手の指は6本あったと伝えられるアンですが、それらを隠すものすら洗練されたファッションに変え、その浅黒い肌と黒髪もエキゾチックな魅力に変えて、男たちの注目の的となりました。中でもぞっこんだったのが、時の国王ヘンリー8世。ヘンリーはこの時、スペインから迎えたキャサリンと結婚していましたが、キャサリンとの間には男の子が生まれず、それが悩みの種でもありました。当初、アンに惚れたヘンリーは、アンを愛人の一人にしようと思いましたが、そんな王の申し出をアンはことごとく突っぱねてこう言います。「私が欲しければ正式な妻としてお迎えください。その代わりに、必ず男の子を産んで差し上げましょう」

 この言葉にますます虜となった王ですが、当時イングランドはローマ・カトリックの支配下にあり、離婚が禁じられていたのでした。するとアンは大陸で学んだプロテスタントなどの新しい考え方を王に吹き込みます。アンと王子が欲しい王は、ナイスアイデアと速攻ローマ・カトリックと決別し、離婚OKの独自のキリスト教会を立ち上げ、イングランドの国教としてしまいます。そしてその足でキャサリンを離婚し、アンと再婚したのでした。この時アンは一人の子を身籠っていました。医者も占星術師も口を揃えて「男の子に間違いありません」と請け負いましたが、生まれ出たのは女の子・・・それがのちにイングランドを強国に導くエリザベス1世だったのでした。

 そんな先のことはつゆ知らず、落胆したヘンリーは百年の恋も一時に冷めるとばかり、浮気に精を出し始めます。これに対してアンの嫉妬は激しく、二人の仲は急速に悪化。そしてついにヘンリーはアンをロンドン塔に幽閉すると、実の弟を含む五人の男と姦通したという根も葉もない罪を着せて彼らとともに首を切り落としてしまいます。アンの死後、ロンドン塔から走り去る馬車の中に、膝に自らの首を抱えるアンの亡霊を見たという噂が後をたたなかったそうです。

 一人の人間の都合で公然と多くの人が殺される・・・なんとも野蛮な時代の話ですが、この脚本を書いていてふと、逆に人の命はいつからこんなにも重くなったのだろうという疑問が湧いてきました。

 歴史を眺めると、おそらくそれは二つの世界大戦や、コロナの流行など、大量に人の命が失われた経験がそうさせるようになったのかもしれません。誠に結構なことと思っていた矢先・・・、衝撃的な記事に出会いました。いわく「人類が滅亡しても地球には良い影響しか与えないけれど、昆虫が滅亡すると地球は死に至る。そして昆虫は急速にその数を減らしている」と。人は確かに人を殺さなくなったけれど、もっと弱者である虫を大量に殺している。直接的にも間接的にも・・・。本質的にはヘンリー8世の時代と何ら変わっていないのかなぁ、と、家の中にばら撒いたホウ酸ダンゴを見つつ、独りごちるのでした。

 

2021年 夏号 紅月劇団 石倉正英

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ホケキョウ


 「ホ~ホケキョ」春を告げる鳥・ウグイスの鳴き声で目覚める今日この頃。なんでもウグイスの鳴き声にはその年その年でブームがあるそうで、昨年僕の家の近くで鳴いていたウグイスは「ホ~ホケチョ」と鳴き、今年のウグイスは「ホ~ホケキョケキョ」と必ず「ケキョ」を一つ付け足して鳴いています。思わずクスッと笑ってしまう鳴き声ですが、彼らはきっと大真面目に格好いいぜ!と思って鳴いているのでしょう。

  「ホ~ホケキョ」といえば法華経。そう何を隠そう、これを書いている今は、我が紅月劇団久々の鎌倉公演「不愉快なみほとけ~日蓮聖人殺害計画~」の本番真っ最中なのであります。なぜ本番中にこのコラムを書いているのか・・・締め切りを忘れていたからでございます。笑 というわけで(どんなわけで?)、今回のテーマは「法華経」をその思想の根本としたお坊さま・日蓮上人に触れてみたいと思います。

  安房国(千葉)勝浦で生まれ、比叡山や高野山に遊学し、立教を開宗した日蓮は、当時の日本の実質的な首都・鎌倉で布教しようと安房国から小舟に乗って鎌倉を目指しますが、途中大嵐に逢い遭難してしまいます。大波に飲まれ、木の葉のように漂うばかりの日蓮を導いたのは、突如として現れた白猿たちでした。白猿たちは日蓮を今の横須賀沖の小さな島に導きます。これが今の猿島で、その名の語源ともなったとか・・・。

 大嵐の海に突如として白い猿が現れるとは、にわかには信じがたいエピソードですが、白猿の伝説はその後も続きます。

 鎌倉入りして松葉谷(今の妙法寺)に草庵を結んだ日蓮が、念仏宗から焼き討ちの攻撃を受けた時(松葉谷の法難)も、白猿が山の中を導いて日蓮を逃した、と・・・。

 澁澤龍彦さんは、「きらら姫」という小説の中で、この白猿を「木地師」つまり「山の民」として描いています。さすがは澁澤さん、とても面白い解釈ですね。実際そうだったのかもしれません。ひょっとすると、海での遭難を救ったのも猿ではなく「海の民」だったのかも。もっと言えば、そもそも日蓮自体が「海の民」だったのかもしれません・・・。

 さて、日蓮聖人没後二百年ほどたったころ、とんちで有名な一休さんが身延山にある日蓮宗の総本山・久遠寺を訪ね、「ナムアミダブツ」と唱えつつ山門を通り抜けようとしたところ、近くにいた久遠寺の僧侶が血相を変えて飛んできて「ナムアミダブツとは何事、ここではナムミョウホウレンゲキョウと唱えなさい!」と諭しました。

  なぜ「ナムミョウホウレンゲキョウ」が良くて「ナムアミダブツ」がいけないのか。仏教に疎い私はこれまでどちらも似たようなもののように思っていましたが、どうしてどうして日蓮さんにとっては全く正反対ともいうべき言葉だったのです。

 「ナムアミダブツ(南無阿弥陀仏)」とは阿弥陀仏、つまり、仏の名前を唱えること。これに対して「ナムミョウホウレンゲキョウ(南無妙法蓮華経)」とは法華経、つまり、お経の名前を唱えること。「仏名を唱えれば誰でも来世は救われる」と説いた念仏宗を、現世の問題から目を背けさせる邪教と痛烈に批判し、釈迦の教えの最高のエッセンスが集められた法華経をこそ国の礎に、と説いた日蓮さんにとっては天と地ほど差のある言葉だったのです。

  これに対して臨済宗の一休さんはどう返答したか。「法華経の心も分からない私なぞが南無妙法蓮華経と唱えることこそ祖師(日蓮聖人)に失礼」と答えたのだそうです。さすがは一休さん、含蓄のある軽妙洒脱な名返答。これには流石の日蓮さんもクスリと笑ったに違いありません。

2021年 春・初夏号 紅月劇団 石倉正英

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MASK Ⅲ

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 泣き笑いの仮面
(天地をひっくり返してみてください)

 コロナ禍で起こった数少ない良いことの一つはマスクが多様化したことかもしれません。かつてはつけるとたちまち東南アジアを感じた色とりどりのマスクも市民権を得て、芸術的なデザインのマスクをつけている人を見るのも外出する楽しみの一つになってきたように思います。何より電車の中にいる美男美女の比率が激増。えっ!? 横須賀線ってこんなに綺麗な人多かったっけ?? 一説には、人は隠された部分を平均的なイメージで補う習性があるとのこと・・・いえ、これ以上触れるのはやめておきましょう。そう、このコラムも気がつけばなんと30回。記念すべきこの回はマスクはマスクでも仮面の話をしたかったのでございます。

 昨年2月、懇意にしていただいている仮面の舞踏家・野口祥子さんから、光栄にもたくさんの個性豊かな仮面をお譲りいただきました。アフリカの仮面あり、日本の天狗面あり、抽象的な仮面あり、現代美術的な仮面もあり・・・中でも心にヒットしたのは、笑顔と泣き顔が一体化した仮面でした。一体化したと言っても泣き笑いの表情ではなくて、両目を真ん中に上下逆さに鼻と口がついた奇妙な仮面です。笑顔に見える仮面の天地をひっくり返すと見事に泣き顔になるという趣向です。トラディッショナルな要素はさほどないけれど、なんとも言えぬ凄まじい妖気のようなものを感じます。木彫りのもので、裏書きを見るとバリ島のウブドと書いてある。恐らくは芸術の村として知られるバリ島ウブドのアーティストの手によるものでしょう。

  昨年は2018年に作った「grotesque」という、とんちで有名な一休さんが、悲劇の花魁・地獄太夫を悟りに導くというエピソードから生まれた作品を練り直して、全国4カ所で上演する予定でした(実際にはコロナの影響で東京・大阪の2公演のみ)。昨年になって一人キャストが増えたこともあり、なんとなく足りないと思っていたシーンを一つ追加することを考えていました。よし、そのシーンにこの仮面を使ってみよう。

   笑顔と泣き顔・・・陽と陰・・・極楽と地獄・・・とイメージが繋がって、最終的に一休さんが「一休」の名を授かるきっかけとなった悟りの歌にたどり着きました。

有漏路より無漏路へ帰る一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け

 物の本によれば、有漏(うろ)は煩悩を、無漏(むろ)は悟りの境地を表すのだそう。「俺はまだ煩悩から悟りの境地へ行く途中にいるんだ、何が悪い」といったところでしょうか。なんとも気持ちの良い開き直り、言いっぷり・・・さすがは一休さん。この歌と仮面、そして役者の大変な努力が合わさって、一際異彩を放つ新たな、そして地獄太夫が新しい境地に一歩踏み出すきっかけとなる重要なシーンが出来上がりました。いやはやすごい力を持った仮面。それは今、僕の部屋の壁にかかって、斜め上から静かに、そして一際鋭い眼差しを投げかけています。

    後日、この仮面をいただいた野口さんに、仮面のワークショップを開催いただきました。おびただしい仮面の中から好きなものを一つ選び、次に衣装を選び、それらをつけて舞台上で即興パフォーマンスをするというもの。この時、他人のやっているパフォーマンスを見ていて思ったのは、なぜかその人の心の本質が仮面に現れ出てくるように感じたこと。顔を隠すものがなぜ人の内面を引き出すのか・・・とても不思議な感覚でした。そう、コロナ予防のマスクもいっそ仮面にしてみたら、その人本来の綺麗な心が現れて、変ないざこざも無くなって・・・いやいや、逆もまた然り、マスク美人に喜んでいるくらいが丁度良いのかもしれませんね。

 

2021年 新春号 紅月劇団 石倉正英
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朗読と演劇のハザマ

  20210727-193046  紅月劇団ワークショップの猛者たち

 かの著名な文豪がSMの元祖・サド侯爵と、稀代の極悪独裁者・ヒットラーを描いた対をなす戯曲があるのをご存知でしょうか?

  このコロナ騒ぎの中、今年で7年目を数える我が演劇ワークショップの公演を無事終えることができました。例年4月からスタートするこのワークショップも今年は一月押し、二月押し、ようやく7月にスタートが切れましたが、高齢のメンバーもおり、稽古中もマスクをしディスタンスを取るなど、異例づくめのワークショップでございました。

  そんな中、今回の題材として選んだのが冒頭の二作品、そう、三島由紀夫の「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」という異色にして対をなす戯曲でした。サドの方は女性ばかり六人のお芝居、ヒットラーは男性ばかり四人のお芝居。題材の異様さもさることながら、完全に女性と男性を分けるという思い切った構成がすごぶる面白い二作品です。

  しかしながら、これをやるにあたっては問題が山積みです。まず、三島作品は上演権を取るのがとても難しい。が、今回はコロナの関係でお客さんもあまり呼べないこともあり、いっそ無料、かつ、関係者だけのプライベート上演にしようということで、上演権問題はクリア。次の問題はセリフ量。まともにやったら、それぞれ3時間はかかる大作です。ある程度脚本を詰めるにしても、ただでさえ短い準備期間をセリフ覚えに使うのも野暮・・・それならいっそ覚えるのはやめにして、朗読劇というスタイルを取ろうということになりました。いわば、全員カンペを持って舞台に上がろうというわけです。これなら役者はセリフを覚えることに腐心する必要もない、なおかつ、朗読劇ということで役者間の距離も取れて一石二鳥・・・のはずだったのですが。。。

  そこは7年を数える我が演劇ワークショップの猛者たち。セリフは覚え始めるわ、シーンに入れば脚本を投げ捨てて相手に掴みかかる・・・当初はせっかくの配慮を無駄にすることばかりやっていましたが、稽古が進むにつれ、動きの線引きがはっきりしてきて、朗読でもない演劇でもない、そのハザマに位置するようなスタイルの作品が出来上がっていきました。

  最後まで難しかったのは目線の置きよう。一人で読む朗読であれば、ずっと本に目を置いておいて問題はないですが、これほど人間関係の濃い作品を、それぞれの役を担ってやろうとすると、本にばかり目線を置いておいては、やる方も観る方も不自然さを感じてしまうのです。けっして字面を追わず、心の目はしっかりと相手を観ている必要がある。ここで役者は、普通の芝居とは違った難しさに直面したようでした。

   反面良いこともありました。芝居というのはともすればセリフを覚えていることの副作用で、特に初心者ではこの後起きることを知っている演技になりがちで、それが芝居のライブ感を損なう原因になるのですが、この朗読劇というスタイルでは、一旦セリフや展開を忘れてその場に入っていける。その場で起こることをその場で感じ取って発語するという、とても良い訓練になったのでした。その瞬間その瞬間で三島の美しい言葉と新鮮さを持って向きあう・・・その結果、どうしても用意してきた演技をしがちだった役者が、その場に自然に身を置けるようになったことは最大の収穫でございました。

 

2020年 秋・冬号 紅月劇団 石倉正英
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