アン・ブーリン
このご時世にも関わらず、大変ありがたいことに今まで面識のなかった団体から脚本の仕事をいただきました。テーマはアン・ブーリン。アン・ブーリンというのは16世紀のイギリスはイングランド王・ヘンリー8世の二番目の王妃で、エリザベス1世の母親です。
ヘンリー8世とは、生涯六人もの妻を持った傲慢にして色魔、欲望のままに生きたと言われる王。エリザベス1世とは、イングランド史上二人目の女王で、生涯独身を貫き、無敵艦隊と言われたスペインを破り、イングランドを超強国に仕立て上げたツワモノ。この超個性的な二人の人物ではなく、あえてアン・ブーリンを取り上げるとは、実に渋い企画でございます。そんなでアン・ブーリンを紐解いてみると、これがまた波乱万丈の生涯なのでした。
10代の頃、新興貴族であった父の命でフランス宮廷の侍女となったアン・ブーリンは、持ち前の知性と感性で、音楽やダンスに秀で、プロテスタントをはじめとする当時最先端の知識や思想をも吸収し、魅力的なレディとなってイングランドに帰国します。首に大きなアザがあり、右手の指は6本あったと伝えられるアンですが、それらを隠すものすら洗練されたファッションに変え、その浅黒い肌と黒髪もエキゾチックな魅力に変えて、男たちの注目の的となりました。中でもぞっこんだったのが、時の国王ヘンリー8世。ヘンリーはこの時、スペインから迎えたキャサリンと結婚していましたが、キャサリンとの間には男の子が生まれず、それが悩みの種でもありました。当初、アンに惚れたヘンリーは、アンを愛人の一人にしようと思いましたが、そんな王の申し出をアンはことごとく突っぱねてこう言います。「私が欲しければ正式な妻としてお迎えください。その代わりに、必ず男の子を産んで差し上げましょう」
この言葉にますます虜となった王ですが、当時イングランドはローマ・カトリックの支配下にあり、離婚が禁じられていたのでした。するとアンは大陸で学んだプロテスタントなどの新しい考え方を王に吹き込みます。アンと王子が欲しい王は、ナイスアイデアと速攻ローマ・カトリックと決別し、離婚OKの独自のキリスト教会を立ち上げ、イングランドの国教としてしまいます。そしてその足でキャサリンを離婚し、アンと再婚したのでした。この時アンは一人の子を身籠っていました。医者も占星術師も口を揃えて「男の子に間違いありません」と請け負いましたが、生まれ出たのは女の子・・・それがのちにイングランドを強国に導くエリザベス1世だったのでした。
そんな先のことはつゆ知らず、落胆したヘンリーは百年の恋も一時に冷めるとばかり、浮気に精を出し始めます。これに対してアンの嫉妬は激しく、二人の仲は急速に悪化。そしてついにヘンリーはアンをロンドン塔に幽閉すると、実の弟を含む五人の男と姦通したという根も葉もない罪を着せて彼らとともに首を切り落としてしまいます。アンの死後、ロンドン塔から走り去る馬車の中に、膝に自らの首を抱えるアンの亡霊を見たという噂が後をたたなかったそうです。
一人の人間の都合で公然と多くの人が殺される・・・なんとも野蛮な時代の話ですが、この脚本を書いていてふと、逆に人の命はいつからこんなにも重くなったのだろうという疑問が湧いてきました。
歴史を眺めると、おそらくそれは二つの世界大戦や、コロナの流行など、大量に人の命が失われた経験がそうさせるようになったのかもしれません。誠に結構なことと思っていた矢先・・・、衝撃的な記事に出会いました。いわく「人類が滅亡しても地球には良い影響しか与えないけれど、昆虫が滅亡すると地球は死に至る。そして昆虫は急速にその数を減らしている」と。人は確かに人を殺さなくなったけれど、もっと弱者である虫を大量に殺している。直接的にも間接的にも・・・。本質的にはヘンリー8世の時代と何ら変わっていないのかなぁ、と、家の中にばら撒いたホウ酸ダンゴを見つつ、独りごちるのでした。
2021年 夏号 紅月劇団 石倉正英
コメント