朗読と演劇のハザマ
かの著名な文豪がSMの元祖・サド侯爵と、稀代の極悪独裁者・ヒットラーを描いた対をなす戯曲があるのをご存知でしょうか?
このコロナ騒ぎの中、今年で7年目を数える我が演劇ワークショップの公演を無事終えることができました。例年4月からスタートするこのワークショップも今年は一月押し、二月押し、ようやく7月にスタートが切れましたが、高齢のメンバーもおり、稽古中もマスクをしディスタンスを取るなど、異例づくめのワークショップでございました。
そんな中、今回の題材として選んだのが冒頭の二作品、そう、三島由紀夫の「サド侯爵夫人」と「わが友ヒットラー」という異色にして対をなす戯曲でした。サドの方は女性ばかり六人のお芝居、ヒットラーは男性ばかり四人のお芝居。題材の異様さもさることながら、完全に女性と男性を分けるという思い切った構成がすごぶる面白い二作品です。
しかしながら、これをやるにあたっては問題が山積みです。まず、三島作品は上演権を取るのがとても難しい。が、今回はコロナの関係でお客さんもあまり呼べないこともあり、いっそ無料、かつ、関係者だけのプライベート上演にしようということで、上演権問題はクリア。次の問題はセリフ量。まともにやったら、それぞれ3時間はかかる大作です。ある程度脚本を詰めるにしても、ただでさえ短い準備期間をセリフ覚えに使うのも野暮・・・それならいっそ覚えるのはやめにして、朗読劇というスタイルを取ろうということになりました。いわば、全員カンペを持って舞台に上がろうというわけです。これなら役者はセリフを覚えることに腐心する必要もない、なおかつ、朗読劇ということで役者間の距離も取れて一石二鳥・・・のはずだったのですが。。。
そこは7年を数える我が演劇ワークショップの猛者たち。セリフは覚え始めるわ、シーンに入れば脚本を投げ捨てて相手に掴みかかる・・・当初はせっかくの配慮を無駄にすることばかりやっていましたが、稽古が進むにつれ、動きの線引きがはっきりしてきて、朗読でもない演劇でもない、そのハザマに位置するようなスタイルの作品が出来上がっていきました。
最後まで難しかったのは目線の置きよう。一人で読む朗読であれば、ずっと本に目を置いておいて問題はないですが、これほど人間関係の濃い作品を、それぞれの役を担ってやろうとすると、本にばかり目線を置いておいては、やる方も観る方も不自然さを感じてしまうのです。けっして字面を追わず、心の目はしっかりと相手を観ている必要がある。ここで役者は、普通の芝居とは違った難しさに直面したようでした。
反面良いこともありました。芝居というのはともすればセリフを覚えていることの副作用で、特に初心者ではこの後起きることを知っている演技になりがちで、それが芝居のライブ感を損なう原因になるのですが、この朗読劇というスタイルでは、一旦セリフや展開を忘れてその場に入っていける。その場で起こることをその場で感じ取って発語するという、とても良い訓練になったのでした。その瞬間その瞬間で三島の美しい言葉と新鮮さを持って向きあう・・・その結果、どうしても用意してきた演技をしがちだった役者が、その場に自然に身を置けるようになったことは最大の収穫でございました。
2020年 秋・冬号 紅月劇団 石倉正英
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