涼子の "春はやっぱり・・・"
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2024年 カジュ通信 春・初夏号
緑溢れるカジュアートスペースにぴったりの曲をご紹介♪
「Ombra mai fuオンブラ・マイ・フ」
ヘンデル作曲のオペラ【セルセ】の中の1曲。ペルシャ王セルセが、一本の美しいプラタナスの木陰をほめたたえて歌います。
♪かつて、これほどまでに
愛しく、優しく、
心地の良い木々の陰はなかった♪
「オーーーンブラ」と始まる最初の長い一音が特徴です。イタリア歌曲集にも入っていてBGMで使われることも多いので、聴いたことがある方もいるのではないでしょうか。心癒されるとてもきれいな旋律です。
♪カジュ祭教室発表♪
2024年4月28日(日)13:00~
今年は久しぶりに歌のソロです。今回紹介したオンブラマイフも聴けるかも⁉︎
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★NAOMI音楽教室★くのきなおみ
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2024年 カジュ通信 新春号
今回は曲紹介です。
寒い季節にピッタリのイタリア歌曲を探してみました。
*レスピーギ作曲「雪 Nevicata」
レスピーギはイタリアの作曲家(1879-1936)です。
彼の歌曲はどれも美しい旋律で心が安らぎます。特に「雪」はピアノ伴奏で聴くのがおすすめです。
前奏は静かに雪が舞い落ちるのを音で表現しています。
広い空に戯れる雪が、静寂の中、野の上、道の上、屋根の上に音もなく穏やかに舞い落ちると歌っています。
そんな静かな響きをピアノが奏で、歌も静かに始まりますが、だんだんと高音にいくにつれてメロディーに動きが出てきます。2分程度の短い曲ですが後半に盛り上がりもあり、何といっても「雪」の表現が本当にすばらしいです。
YouTubeなどでも聴けるので、3大テノールであるパヴァロッティが歌っているのをぜひ聴いてみてください。
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★NAOMI音楽教室★くのきなおみ
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ステンドグラスからの風景(天下堂にて)
先月富山を訪ねた夜、最後に一杯と入ったお店のママさんと話していたら、「このお店の先に天下堂という薬屋さんがあってその2階のランチが美味しいわよ」と教えてくれました。「明日ぜひ行ってみます」と店を出、宿に戻ってネットで調べてみるとその界隈に天下堂なる薬屋は見当たらず、代わりに富山駅から路面電車で30分程行った岩瀬浜にある天下堂というカフェのカレーの写真が出てきました。聞き間違えか、ママさんの記憶違いか、ともかくそのカレーの写真があまりにも美味しそうで、僕のお腹はすっかりカレーの気分となり、翌日、岩瀬浜の天下堂を目指し路面電車に乗っていたのでした。昔は北前船で栄えた浜辺の街も今ではかなり寂れ、時代に取り残された風情を感じつつ歩いていると、ひときわ時代に取り残されたような建物が現れました。それが他ならぬ目的地、天下堂だったのでした。
やっているのかどうか微妙な雰囲気の中、恐る恐るドアを開けると、スーツやらネクタイやらがそこかしこにディスプレイされた不思議な空間。あれ間違ったかな?と思っていると、奥に座っていた年配のマスターが「ようこそいらっしゃいました」と優しい笑顔で迎えてくれました。「2階へどうぞ」と案内してくれたマスターの顔を間近で見ると、母の兄にあたる齢95になるKおじさんによく似ていて、一気に親しみが湧いてきました。
誰もお客がいない中、窓際に陣取るとその窓がなんだかおかしい。ガラスが不均質で外の景色が歪んで見えるのでした。「これは昔のガラスですか?」と尋ねると「いえ、透明なステンドグラスをはめているんですよ。この窓を通してみると見慣れた外の景色を飽きずに見ていられるんです」と粋な答え。なるほど確かに油絵のように見えてくる不思議さ。
出てきたカレーを一口頬張ると、美味い!! 優しくも絶品のカレーにクミンが入ったターメリックライスがなんとも清々しい風味を醸し出している・・・と「孤独のグルメ」みたいになってきましたが(笑)本題はそこではありません。食べながらふと横を見るとテーブルの上に「天下堂だより」というポストカードが立ててあり、マスターが書いたであろう文章が印刷されている。それを読んだ瞬間、僕はそのマスターに並々ならぬ興味を覚えたのでした。事実と創作が入り混じったその文章には小粋さや真理、ふっと心を揺さぶるものがあったのです。それから実に素敵な心の会話が始まったのでした。一つの話題がマスターの手によってどんどんと深化、昇華されていく・・・。
天下堂はもともと富山の中心街にある老舗の洋品店でマスターはその代表、ここは支店兼カフェなのだそう。ふと気がつくと、向こう側の窓ガラスが薄い黄色で、マスターが立っているカウンター一帯をぼんやりと黄色い世界にしている。それを見て、思わずこんなことを言ってしまった。「なんだかマスターのいるあたりは黄色いライトが当てられた舞台のよう。舞台は彼岸ですから、まるで彼岸と此岸で会話をしているような気がします。で、舞台と客席には彼岸と此岸を隔てる結界のようなものが必要で、それがないと舞台が成立しないんですよね。ここではカウンターがまさに結界ですね」。するとマスターがこう言いました。「結界ってKeep outと捉えがちだけど、漢字を見ると「結ぶ」という字が使われている。彼岸と此岸、二つの世界を隔てるのではなく、結ぶ線と捉えても良いんじゃないですかね」・・・僕はこの言葉に愕然としました。今まで隔てる線だとばかり思っていたものが結びつける線だとは・・・なんと優しい見方なのだろう。僕は今日、なんと素敵な先輩に出会ったのだろう・・・。嬉しくて涙が出そうになりました。
「実はここに来たのには面白い間違えがあって・・・」と件のいきさつを話すとマスターも感慨深く「これはきっと偶然とか必然とかいうものではなくて、僕たちが何か大きなものと繋がっているからこそ出会ったのですよ」・・・。
名残惜しさに後ろ髪をひかれつつ鎌倉に戻ってから二週間ほど経ったある日、Kおじさんが他界したという知らせが入りました・・・。マスターのおかげで、Kおじさんにも最後に少し会えたのかもしれない、と思うのは感傷に過ぎるでしょうか。
カジュ通信 2024年春・初夏号 紅月劇団 石倉正英
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行間は踊る、されど進まず
今、今年取り組む作品のテーマとなる平家物語を読み直しています。が、膨大なページ数なので、人一倍読むのが遅い僕であるがゆえ、遅々として進まず、年明けから読み始めてまだ平清盛が元気に生きています。笑 この調子では、読み終える前に稽古がスタートしてしまうのではないかという危惧が頭をもたげてきています・・・。
まこと僕から見ると周りの人の文字を読むスピードはめちゃ速い。よく美術館や博物館で説明書きを読んでいて、ふと気がつくと渋滞ができている。そこで「速く読めよ」プレッシャーを受けるのです。げに世の人々は何故にそれほど速く読めるのでしょうか。
文字を読むスピードは何に左右されるのでしょうか。鍛錬? 性格? 頭の回転?
読書スピードが上がれば、それだけ短時間で多くの書物が読めるわけで、生涯の読書量に大きな差ができてしまう。そこまで大袈裟でなくても、僕のように脚本などを書く人にとっては、下調べの時間が大いに節約されるわけで、非常に効率が良くなるはず・・・。が、速く読もうと頑張ってはみるものの頭が追いつかず、どうしても速く読めないのです。速く読める人は頭の回転が良く、理解力も高いのでしょうか。
しかし、同じように読書スピードが遅いと自白する同士が過去に二人おりました。
一人は脚本家の宮藤官九郎さんで、前にTVのインタビューで、はじめにこの作品の原作を渡されたのだけど、自分は人一倍読むのが遅いので、これをまともに読んでいたら読み終える前に〆切が来てしまう、よって、あらすじだけを読んでこの脚本を書きました云々。
もう一人は湯布院の民泊のオヤジさん。いわく「俺ほど読むのが遅い人間はいない。その代わり、俺ほど読んだ本を理解できる人間もいない」。あっぱれ!
とはいえ、読書スピードと内容を理解するスピードが一致するとも思いません。簡単な本ならまだしも小難しい本や複雑な推理小説などは、さらっと読んだだけではとても理解できるものではない。ひょとすると読むのが速い人は先に一通り読んでしまってから内容を吟味するのかな・・・とここまで書いてきてふと気がつきました。考えてみると、僕は黙読でも音読と同じ速さ、作者や登場人物がナチュラルに発語する速さで読んでいる! 遅いはずじゃん(笑)。これはもう役者のサガなのかもしれません。じゃあ気にせずゆっくり読みゃあいいじゃないか。おっしゃる通り。でも〆切があるとそうも言っていられない・・・。
が、何故だか今回平家物語を読み始めた時、ふと、焦らずあえてゆっくりと一字一句吟味しながら読んでみよう、と思ったのでした。開き直りというよりは、これはある種のお告げのようなもの。
すると、なんだか行間に、そこには描かれていない人々の声や振る舞いのようなものが立ち現れてきて、イマジネーションがえらく活性化されてくる。文字化されていない世界が広がり、膨大な人々の悲喜交々が見えてくるような気がするのでした。
そうか、叙事詩とはそういうものなんだ・・・。
おかげで芝居の構想を描きながら読み進めることができています。これはきっと良い脚本ができるに違いない! 稽古スタートまでに読破できるかどうかは保証の限りではありませんが・・・。
2024年初春 紅月劇団 石倉正英
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上毛かるたの「よ」と「ら」
長野県民は皆「信濃の国」という県歌を歌うことができると聞きました。それはなぜかというと、六番まである歌詞には長野の地理や歴史、文化などが余すことなく盛り込まれているので、郷土について教えるのに都合がよく、県内の小学校の音楽や社会などの授業でよく取り上げられるからなのだそう。勉強好きといわれる長野県民らしい理由かもしれませんね。
我が故郷・群馬県にもそれに似たものがあります。「上毛かるた」というものです。
近年TVなどで取り上げられることが多くなったのでご存じの方も多いことでしょう。「信濃の国」と同じように、群馬の偉人・文化・名所旧跡がふんだんに盛り込まれていて、一回遊べば群馬のことが大体わかる仕組みになっています。
ほぼ全ての群馬県民はこれを誦じて言えます。いやいや嘘ではありません。もし群馬県出身の人に出会ったら上毛かるたの「い」は?と聞いてみてください。間髪入れず「伊香保温泉日本の名湯」と立板に水のごとく答えてくれること請け合いです。
それはなぜかといえば、長野のように小学校の授業で取り上げられるからではなく、そこは博打好きな群馬県民、子供の遊びの一種であり、毎年町内会で「上毛かるた大会」が催され、地区予選から県大会まであって、誰しも子供の頃に暗記するほど遊んでいるためなのです。こんな具合に幼少の頃から刷り込まれた知識は自ずと郷土愛に結びついていく・・・。
いくつか紹介しましょう。歴史上の偉人シリーズでは「て:天下の義人、茂左衛門」「ぬ:沼田城下の塩原太助」「れ:歴史に名高い新田義貞」等々。
最近世界遺産になったところも「に:日本で最初の富岡製糸」。
温泉大国である群馬の名湯シリーズでは、上述の伊香保温泉のほかに「く:草津よいとこ薬の温泉(いでゆ)」「よ:世のちり洗う四万温泉」と三役揃い踏み。ちなみに四万温泉の絵札にはやんわりと入浴中の女性のヌードが描かれています(下図)。それゆえに、子供の頃この札を取ると速攻「エッチ!」と冷やかされたものです。笑
前回のテアトロ・カジュで取り上げた小栗上野介も、入っていて良さそうな偉人ですが入ってない。これも明治政府の仕業かというと、そうではなくて、当初は小栗も候補の一つだったのだとか。
なぜ選から漏れたのかというと、この上毛かるたが編纂された太平洋戦争直後、かるたの内容もGHQの検閲を受けねばならなかったのだそうで、横須賀製鉄所を作った小栗は、日本を軍国化させた張本人とみなされたために、ヤクザの大親分・国定忠治の札などとともに却下されてしまったのだとか・・・。
その候補作が「ち:知慮優かな小栗も冤罪」。代わりに採用されて今に至る「ち」の札は「力あわせる二百万」。これは群馬の人口を表したもので、僕が子供の頃は「力あわせる百六十万」でした。人口の推移とともに度々改訂されているのですが、もし小栗の札が採用されていたら、昨今の少子化によって人口が減っていく寂しさを感じずに済んだかもしれません。
ちなみに上毛かるたを編纂した浦野匡彦は、小栗のように取り上げられなかった人々をまとめて象徴するような札を一枚入れています。「ら:雷と空風、義理人情」。この札は群馬県民の精神風土を見事に表しているとともに、白い読み札の中にあって、いろはの「い」の札とともに二枚だけ赤く色付けられている読み札のうちの一枚なのです。
2023年秋 紅月劇団 石倉正英
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