石倉正英の「テアトロ・カジュ」(ISHIKURA)

暗転のコスモロジー

20200810-200756   役者から地獄太夫へ(「grotesque」より)

 先日、このコロナ禍の小康状態の中、久しぶりに東京の小劇場で公演を行いました。この「久しぶり」というのには二つの意味があって、一つは昨年の12月以来久しぶりの公演であったこと、そしてもう一つは超久しぶりの劇場での公演であったことです。思えば「劇場」を飛び出して、古い建物やカフェなど、非劇場の空間で作品を創るようになってもう十数年の月日が経っておりました。

 久々に劇場で公演してみると、改めて気づかされることが多くありました。その一つが「暗転」です。暗転とは文字通り舞台を真っ暗闇に転じること。それは主にシーンの転換、すなわち、場所を変えたり、時間の経過を表したり、芝居の始まりや終わりにつなげたりするために使われるもの。暗転しさえすれば場面が移り変わってくれる・・・芝居の作り手にとってみると、これほど便利なものはないのです。

 この暗転の前後で役者は登場したり退場したり立ち位置を変えたりします。明るい照明を受けていたところから一瞬にして真っ暗闇になる、その中での移動は困難を極めますが、その際役に立つのが暗闇の中で光ってくれる蓄光テープです。出はけ口や段差、立ち位置などに貼られていて、役者はそれを目指して移動します。暗転の多い芝居では、この蓄光テープが舞台上にたくさん貼られていて、暗転するとさながら満天の星空のように見えるのです。他に褒めるところがなかったためか、終演後のアンケートに「蓄光テープが綺麗だった」と書かれたこともありました(笑)。

 かつて劇場で公演していた僕らもこの蓄光テープにはお世話になっていたわけですが、今回の公演で久しぶりの暗転に身を置いた時、思わずこの暗闇の中で動く怖さを感じたのでした。それもそのはず、今僕らが公演している会場は古民家や西洋館。住宅地にあることも多く、音の関係で夜遅く公演できないことも手伝って、どんなに遮光しても完全な暗転を作り出すことは不可能。気がつけば、このメリットだらけの暗転を捨てた芝居を強いられてきたことに気づいたのでした。

 で、今回ばかりは暗転の恩恵に預かってもよかったのですが、結果的に僕らが選択したのはここでも暗転の無い芝居だったのでした。それは真っ暗闇の中で動くことにいらぬストレスを感じたこともあったのですが、暗転というメリットを捨てることで逆に思わぬ効果が得られることを知っていたためなのです。
例えばオープニング、地獄太夫という花魁が一人寝ているシーンで幕を開けるのですが、暗転があれば、地獄太夫は暗いうちに床についていればそれで済む。しかしながらほのかな紫の照明に照らされる中で登場し横たわり寝姿にまで辿り着かなければいけないとしたら・・・それならいっそ、まずは生身の役者として登場し、その場で地獄太夫に変化していく様を見せても面白いんじゃないか、というアイデアが生まれた。実際にこれは要所要所でとても面白い効果をもたらしてくれたのですが、こういう発想ができるようになったのも、まさに暗転ができない空間に育ててもらったおかげなのだと思います。

 やっかいなウィルスが蔓延る昨今、「暗転」してウィルスのない世界にスコっと進みたいところですが、あえて暗転を封印した展開を考えるとしたら・・・案外そのアイデアは人類にとって面白い効果をもたらしてくれるような気もいたします。

 

2020年 夏号 紅月劇団 石倉正英

| コメント (0)

手 の 力

20200723-101430 本番前の儀式(「FIRE!WORKS」より)

つい2〜3日前に馴染みのイタリアン・レストランでランチをしてお支払いをした時のこと、お釣りを受け取る際にお店のママさんと手と手が触れ合ったのでした。
その手が思いの外柔らかく心地の良い温かさで、なんとも彼女の感謝の気持ちがダイレクトに伝わってきたようで嬉しかった・・・と言っても恋の話をしようというのではありません。
この時、久しぶりに他人の手に触れたことに気がついたのでありました。

昨今、ソーシャルディスタンスというエチケットが根付いて以来、自然、他人と距離を取るようになって、握手はおろか人と会うのもWEBでというご時世。
こんな状態になってみると、逆に手の持つ力というものを改めて考えてみたくなりました。

昔流行ったハンドパワーじゃありませんが、手からは確かに何かが出ているような気がします。
「手当て」という言葉は、手を当てて怪我や病気を治したことから来ているという俗説は間違いで、本来「処置」という意味があるからなのだそうですが、そう言われても、この俗説は本当に実感するところで、お腹が痛いと思わず手を当て、じっと我慢していると次第に痛みが和らいで来たりしますよね? 
母が子に、夫婦や恋人がパートナーに手を当ててあげれば効果覿面。そこには相手を思いやる心の力が加わって、手から癒しのパワーが溢れ出て来るのでしょう・・・と信じたい。

神社仏閣に行って手を合わせる。合掌。
人はそこに願いや悩み、感謝、祈りを重ねますが、そこから得られる最大のご利益は、ひょっとすると神仏のご加護ではなくて、両の手の平から溢れ出る何かが合わさることで、心が一つにまとまることかもしれません。
答えやそれを叶えるために為すべきことは、本当は自分自身がよく分かっていて、神仏を前に手を合わせることで、それを整理したり直視できるようになるような気がします。

僕らが芝居の本番前に必ず行う儀式があります。円陣を組んで互いに手を繋ぎ合い、1分ほど目を閉じて深く呼吸するという儀式。これによって皆の心が開かれ、互いにパワーを送り合い、一つにまとまって本番に臨めるのです。
もっとも、むさ苦しくキャラの濃い男優が大半を占める我が劇団では、手に汗した男同士が手を繋ぐのには本番以上の覚悟が要るかもしれませんが・・・。

2020年春・初夏号 紅月劇団 石倉正英

| コメント (0)

花 火

20200723-101249

今年は東京オリンピックと重なることもあって、各地で花火大会が中止になっているようです。我が鎌倉も例に漏れず、早々に中止宣言が出されました。なんとも寂しい限りです。花火といえば夏の風物詩。老若男女を問わず、いまだ一緒になって楽しめる催しは他にないのではないでしょうか。

昨年12月、我が紅月劇団恒例の年末公演を行いました。
麻心という由比ヶ浜を見下ろすカフェで毎年行っている年末公演。何を隠そう、今回のテーマは「花火」でした。12月に花火?と訝しむ向きもあることでしょう。そう、この季節外れのテーマを選ぶに至ったのには、なんとも不思議なご縁、神仏のお導きともいえるものがあったからに他なりません。

夏も終わって、朝晩だいぶ涼しさが増して来た9月下旬、今年の年末公演は何をやろうか、と麻心に足を向けました。毎年こんな風に麻心を訪ねると、なにがしかのヒントが得られるのですが、今回は向かう道すがら、やおら「ドドーン!!」と爆音が聞こえて来ました。なんと、こんな季節外れに逗子の花火大会が開催されていたのでした。
案の定(失敬)、お客さんが誰もいない麻心の窓際の席に腰を下ろすと、海越しに花火がよく見えます。思いもよらぬ特等席で、麻心のスタッフと一緒にしばし季節外れの花火を堪能したのでしたが、それは、途中マスターに誘われて外に出て花火を見始めた時に起こったのでした。

その時、ふとマスターがこうつぶやきました。「花火をみるなら、本当は寒い時期の方が良いんだよね」と。確かに空気が澄んで夏よりも綺麗に見えるかもしれない。
しかしその時、僕はまったく逆のことを考えていたのでした。

一発一発終わるたびに、なぜだか絵もいわれぬ寂寥感に襲われていたのでした。それは僕も含めてむさ苦しい男数人で寂しく見ていたせいもあったでしょう。しかしそれ以上に、花火が夜空に花開く美しさよりも、消えて無くなっていく瞬間の方に心を持っていかれるように思えたのでした。それは涼しさと無縁ではないように僕には思えました。

 花火師が丹精込めて作った花火は、一花咲かせると、ものの十数秒で消えて無くなっていくのだという厳しい現実を目の当たりにした気分だったのでした。夜空を舞台に花開くや否や消えていく・・・それはとても芝居に似ているようで、なんとも自分のやっているものへの切なさを覚えてしまった瞬間でもありました。裏を返せば、それこそが花火や芝居の素晴らしいところのはずなのですが。

かくして、この「一瞬で無くなる」切なさが年末公演の大きなテーマとなったのですが・・・こんな風にセンチメンタルな気分にさせられることを考えると、やはり花火は夏の暑い盛り、大勢の中で汗をかきかき、「たまや〜」と叫びつつ見る方が良いのかもしれない、などと思ったりもしたのでした。もちろん、傍に浴衣美人がいるに越したことはありませんが・・・。

 

2020年新春号 紅月劇団 石倉正英

| コメント (0)

とうもろこし泥棒

20200723-100659


 子供の頃、親父が大事に育てた畑のとうもろこしを無情にも盗んでいく輩がありました。これは明朝採ったらさぞかし美味しいだろうと思って、あえて残しておいたとうもろこしが、翌朝採りに行くと無い! ここぞというタイミングを見計らって盗んでいくとうもろこし泥棒。その手口は大胆にして華麗、実に鮮やかなものでした。なんとか尻尾を捕まえてやろうと、まだ夜が明けぬうちに畑に行ってみると、なんとその犯人はタヌキだったのでした。日々繰り返されていたタヌキと親父の大攻防戦。親父にとっては「待ってしまった」がための連戦連敗、さぞ悔しいことだったと思いますが、その美味しさに舌鼓を打つタヌキの顔を想像するに、なんともほっこりとして、可笑しくて笑ってしまったという思い出があります。

さて、今年も半年間の演劇ワークショップが終わりました。芝居初心者も芝居の質を高めたいベテランも分け隔てなく参加でき、一緒になって一つの舞台を作りあげていくという取り組みも早6年目。しかも今回の発表公演会場はカジュ・アート・スペースで、この空間の素晴らしさを再認識した公演でもありました。
毎年、ワークショップでは僕自身たくさんの気づきが得られるのですが、今回とても実感したのが「待つ」ということでした。そもそも芝居作りは「気づくこと」と思っているのですが、配役が決まってから数ヶ月、一人一人その登場人物と向き合って生活し、手を取り合って稽古場に入っていくことを繰り返していくうちに、幾度と無い気づきを経て芝居が出来上がっていく。それは役者の経験年数や上手い下手、センスによって質も量も様々ですが、人それぞれその経験値やタイミングでしか得られない気づきというものが確かにあって、それが浅かろうが深かろうが、いずれも当人にとっては鳥肌もの。それらが寄せ集まって、本番の一瞬一瞬に生きる時、舞台がキラキラと輝くのです。
今回新たに参加した人にはとても初々しいキラキラがあり、6年目の人には様々な色や形をしたキラキラがあって、昨年の公演よりもさらに素晴らしい舞台が出来上がりました。

この気づきは他人から教えられるものではなく、あくまでも役者本人の腑に落ちないと意味がないもの。腑に落ちないうちに指示されるがままやっている芝居というのはとても見られたものではありません。それは演出や相手の役者から投げられたボール、全く別のシーンや日常の生活の中のちょっとした出来事などなどをきっかけとして、いつ転がり込んでくるか分からないものなのです。
今回僕の中でとても明確になったのは、皆がこの気づきを得られるまで最善を尽くしてただ待つこと、それこそが僕の仕事なんだということでした。毎年新しい人を迎えるという6年間のワークショップの場が知らず識らず僕の中にその耐力を醸成してくれたのでしょう。その作業はけっして急いではいけない、安直に答えを与えたくなる気持ちを必死に抑える、実にじれったく忍耐力を要する仕事ですが、そうこうしているうちに、僕らが未だ探求して余りある「本番でいかに自由になれるか」という課題にまで、手をつけ始めた人も出てきたのでした。それは僕にとってとても驚くべきことでした。

毎年ワークショップが終わると、折角ここまで育てた役者が他に取られてしまわないだろうかなどという愚かな考えが頭を巡るのですが、たとえ、親父のとうもろこしのようにタヌキに盗られたっていいじゃないか。タヌキがその味にビックリして病みつきになるくらいの役者をたくさんこしらえるべく、来年も大いに待ってやるぞ、と自分に言い聞かせるのでした。

2019年秋・冬号 紅月劇団 石倉正英

| コメント (0)

Nevermore

20200723-95118

 先日の公演「ラ・フォンテーヌの寓話」の中で「カラスとキツネ」という作品を作りました。間抜けなカラスとキツネ、どちらがこの世界を的確に言い表せるかを競うというお話で、様々な美辞麗句を並べるキツネに対し、カラスはただひたすら「Nevermore」という言葉で応戦するという内容。僕が演じたのはカラスの方で、セリフが一つしかない、とても楽な役のはずだったのですが・・・。

この「Nevermore」という言葉には元ネタがあって、それはかのエドガー・アラン・ポーの名作「大鴉」の中で、恋人をその死によって失った主人公と窓辺に飛んできた大鴉が会話に似たやりとりを交わすのですが、主人公が何を問いかけてもカラスは「Nevermore」の一点張りで応じるのです。

「Nevermore」という言葉は不思議な言葉で、本物のカラスが発語したら面白い響きになりそうですが、日本語に訳すとなんともしっくりこない。「これ以上ない」「二度とない」「最早ない」・・・どの訳を読んでも「never」と「more」という異質な二つの単語を双方とも満足に言い表せていない感があります。いったい、この言葉でポーは何を示そうとしたのでしょうか。

実は、今回僕が演じた役の中でもっとも苦労したのがこのカラスだったのでした。
「Nevermore」という言葉自体が難解な上に、何に対してもこの一語で応じることの難しさ。下手な意味や意図を乗せた途端に、その世界観は崩壊していく。では何も考えずにやればいいのかというとそれも違う・・・。まるで、言語という茫漠たる海に、一艘の小舟を漕ぎ出すような、そんな不案内な心許なさを感じるのと同時に、言葉というものの成り立ちを垣間見た気もいたしました。

実際のカラスは鳥の中で最も頭が良く、一説には49の言葉を操るのだそうです。「カーカーカー」と鳴くと「ここに美味しい食べ物がある」という意味、「カッカッカッ」と鳴くと「危険が迫っている」という意味なのだそうです。彼らはこれらの言葉を駆使して、意地悪をした人間の情報を共有し、仕返しをすることもあるのだそう。お気をつけあれ。ん? この前、立て続けに2回もフンを落とされたのはそのせいだったのか!?
一方、背景に同化するために体色を変えると思われていたカメレオンは、最近の研究では、その変幻自在の体色を会話にも使っているとのこと。赤い色になると相手に怒っていることを伝え、喧嘩に負けると茶色になって敗北・服従を示すのだそう。色で会話するなんて、なんともお洒落な言葉ではありませんか。

さて、カラスのセリフ「Nevermore」ですが、これを題材にした絵をゴーギャンが描いています。晩年の大作の一つで、かつてロンドンに行った折、コートルード美術館でその実物を見る機会を得ました。今になって思うと、これほど「Nevermore」という言葉を体現した作品は他にないのではないか・・・。それがなんとこの秋、上野にやってくるとのこと。ご興味あれば、是非ご覧になってみてください。



2019年夏号 紅月劇団 石倉正英

| コメント (0)

ラ・フォンテーヌの寓話

鎌倉路地フェスタ参加作品「ラ・フォンテーヌの寓話」の上演準備が佳境に入っています。「ラ・フォンテーヌの寓話」とは17世紀の詩人ラ・フォンテーヌによる寓話、すなわち、擬人化した動物達を登場人物にして教訓や風刺を語らせたもの。250編ほどにもなるこの寓話集はイソップ寓話などを下敷きにしてラ・フォンテーヌが30年にも渡って書き続けたもの。従ってイソップ寓話によく似た話がいくつもあります。
例えば「アリとセミ」。かの有名な「アリとキリギリス」と同じ内容ですが、現在伝わっているイソップ寓話とは違って最後が秀逸。

セミ「冬になって食べ物がなくなり、ひもじい思いをしています。
   すみません、アリさん、少しわけてもらえませんか?」 
アリ「蓄えがないだって? 夏の間何をしていたの?」 
セミ「皆のために歌を歌っていたのです」 
アリ「じゃあ今度は踊ったら?」

けんもほろろの塩対応。優しいカジュ通信の読者のことです、思わずセミに同情してしまう方が多いことでしょうが、本国フランス人の中にも、セミの味方をする人がいるようで、フランス文学者の鹿島茂さんによれば、その一人の言うことには、人を楽しませるパフォーマーであるセミに代価を払わないアリはおかしい、とのこと。芝居に携わる僕としては、もちろんこの意見に大賛成ですが、さて、皆さんはどう思われるでしょうか。

現在伝わっているイソップ寓話の「アリが施しを与える」というラストであるならば、アリを悪く言う人はまずいないでしょう。ある意味、そこには別の解釈を入り込ませる余地が無きに等しい、と言うことができるかもしれません。しかしフォンテーヌのそれは、セミも悪いがアリも心が狭い、いや、そもそもセミの言ってることは嘘なんじゃないか・・・てな具合に、あえてツッコミの隙を与えているような、そんな企みが垣間見えるような作品が数多くあります。

今回我々が取り上げたお話の一つに「クマと園芸の好きな人」というのがあります。互いに孤独だったクマと園芸の好きな老人が森で出会い、意気投合して一緒に暮らし始める。するとある日、うたた寝をしている老人の鼻にハエが止まります。クマはそれを追い払ってやろうとするのですが、いくらやってもハエはビクともしない。業を煮やしたクマは「絶対に追い払ってやるぞ」と、やおら敷石を持ち上げると、ハエめがけて投げつけたのでした。クマは見事にハエを仕留めるとともに、老人の頭も潰してしまったのでした。

なんともブラックなラストですが、フランスではこのお話から生まれた「クマと敷石」という諺があるそうです。その意味は「ありがた迷惑」。迷惑にもほどがあるといったところですが、かのフォンテーヌはこの物語の最後をこう締めくくっています。
「無知な友ほど危険なものはない。賢い敵の方がまし。」
ひょっとして皆さんもお心当たりがあったりして。

Image1
「カラスとキツネ」(シャガール)

2019年春・初夏号 紅月劇団 石倉正英

| コメント (0)

Coffee & Cigarette

 大学時代、影響を受けた先輩の一人M氏には、実にいろいろなことを教わりました。煙草、酒、珈琲、音楽、ビートニクス、etc・・・。群馬の片田舎で生まれ育った僕には、そのどれもが新鮮で格好良く、そして大人の男の匂いに溢れていました。

 そのM氏が語ってくれた中で、なぜかいまだに心に残っているのが「煙草を吸っていれば、いつまでも喫茶店に居られる」という言葉。その真意は、ゆっくり珈琲を冷まし飲みながら物思いに耽りたいとき、煙草をくゆらせていると店の人も他の客も、何ら気を止めないでいてくれるということ。「分煙」という言葉がまだなかった頃の話です。

  確かに煙草も吸わず、本も読まずに長々物思いにふけっている客がいたら、何か相当悩みを抱えているのでは、などと邪推を始めてしまうかもしれません。この場合、煙草というアイテムが実に良い効果を発揮して、そういった意識を文字通り「煙に巻いて」くれるのでしょう。

 これを聞いた当時の僕は、耽る物思いもないくせに、暇さえあれば喫茶店に行って長々煙草をくゆらせて珈琲をすすったものでした。「形から入る」とはまさにこのこと。次第、考え事をするときには喫茶店に行くようになり、煙草を吸わなくなった今でも、脚本を書く時は喫茶店に行き、美味しい珈琲を傍に置いて、というスタイルが身についてしまいました。

 ちなみに「くゆらせる」とは「燻らせる」と書き、その意味は辞書で引くと「ゆるやかに煙を立てる」こと。しかし、煙草と紐づくと、この言葉はその意味だけには留まらなくなって、人差し指と中指とで挟まれた煙草からゆるやかに立ち上る紫煙が、柔らかな風に乗って自分のまわりを取り巻いて、付かず離れず、良い距離感を保って揺蕩うている様を表すような、より深い意味を纏ってくるような思いがします。あたかも、程よいパーソナルスペースを視覚化してくれるような・・・。
  その空間の中で男は美味しい珈琲を味わいながら物思いに耽る一人の時間を、何に気兼ねすることなくゆっくり過ごすことができるのです。これをダンディズムと言わずして何と言いましょうか。笑

 煙草が電子化されて、他人に迷惑をかけずにニコチンを効率的に摂取する機械と化し、「煙草をくゆらせる」という言葉が死語になりつつある今日、嫌煙者にとってはまったく結構な時代になりましたが、一方で男は煙とともに男としての重要な何かを失っていくような寂しさを感じます。

 そんな失われゆくダンディズムへのオマージュとして、故かまやつひろしさんの名曲「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」の一節を。

そうさ、短くなるまで吸わなけりゃだめだ
短くなるまで吸えば吸うほど
君はサンジェルマン通りの近くを歩いているだろう

2019年初春号 紅月劇団 石倉正英

| コメント (0)

久生十蘭

 演劇初心者から役者の方まで、幅広いメンバーで毎年取り組んでいる紅月劇団ワークショップ。その発表公演が10月13日〜14日にかけて我らがホームグラウンド「西御門サローネ」で執り行われました。今年の演目は「乱歩と十蘭」。江戸川乱歩と久生十蘭(ひさおじゅうらん)の作品を原作としたオムニバス形式の公演でございました。
  ということで前回のテアトロ・カジュでは乱歩について書きましたので、今回は「十蘭」について触れてみたいと思います。

  久生十蘭は乱歩と同時期、大正から昭和にかけて活躍した作家で、乱歩より8歳年下。そして乱歩より8年早く世を去った、生年も没年も8年差という、ちょっと奇妙な縁の二人です。
  その著作はユーモア小説からミステリー、ノンフィクションと多岐にわたり、その博識と技巧的作品から「小説の魔術師」とも呼ばれ、「ジュウラニアン」という熱狂的な愛読者を生み出しました。また、パリに遊学中はレンズ工学と演劇を学び、文学座の立ち上げにも関わるなど、演劇の世界にも身を置いていた人。さらに晩年住んでいたのが鎌倉の材木座、しかも今僕が住んでいる家のすぐ近くだったそうで、大学時代、機械工学科に席をおきつつ演劇に目覚めた僕としては、勝手ながらなんともいえぬ親近感を覚えてしまう人です。

僕個人の関わりとしては、今回のワークショップで取り上げた傑作短篇「ハムレット」や「湖畔」を一時間かけて読むという冒険的な朗読会を開いたり、「生霊」を題材とした「GHOST」という芝居を作ってみたりと、ひとかたならぬご恩を受けております。時を超えた「ご近所のよしみ」とでも言いましょうか。笑
  なんとも無駄のない歯切れの良い文章で、その発想力、展開力には舌を巻きます。まだ読まれたことがない方は、上記三作品から始められることをお勧めします。読了後はジュウラニアンの仲間入り必至です。

 面白いのは戦中の彼の活動です。厳しい検閲に影を潜めた乱歩と対照的に、十蘭は大政翼賛会の文化部に入ったり、海軍報道班員として従軍しつつ、大日本帝国賛美的作品を書いていきます。その時代の作品は今でも読むことができますが、そういった表現はされているものの、それを隠れ蓑にして「書く」という衝動や欲求を満たしつつ、更なる芸術的探求、進化を続けていたことがよく分かります。あたかも、ナチスの命を受けてベルリン五輪を撮った稀代の映像作品「オリンピア」の監督レニ・リーフェンシュタールのように・・・。ちなみにレニは戦後、ナチスの片棒を担いだ廉でドイツから追い出されることになります。
  久生十蘭にしても、そうせざるを得ない状況というものがあったにせよ、軍国主義に与した行動を嫌悪する向きもあるでしょう。ただ、彼らが何に忠実だったのかといえば、国や軍などではなく「芸術」に忠実だったのではないかと僕は思います。

  終戦の翌年、真の表現の自由を手に入れた十蘭は、「ハムレット」を発表した後、材木座に移り住んで、「十字街」、「鈴木主水」(直木賞)、「母子像」(ニューヨーク国際短篇コンクール第一席)といった名作を次々と生み出して行くのでした。

 

2018年秋冬号 紅月劇団 石倉正英

 

| コメント (0)

乱歩という免罪符

 ひょんなきっかけから、10月に予定している今年のワークショップ公演は、江戸川乱歩を取り上げてみようということになりました。そんなで久しぶりに乱歩を読み返してみたらば、あらまあ、今更ながらにエロ、グロ、猟奇のオンパレード。覗き魔にストーカー、猟奇殺人・・・本能や欲望に忠実に?生きる人々を肯定して余りある作品だらけ・・・。にも関わらず、乱歩の人気は老若男女を問わず、生誕125年を迎えようという今も衰えることを知らないようです。
  なぜ、乱歩の作品はかくも異常なのに、多くの常識的な人々にも受け入れられたのでしょうか。

人間が誰しも原罪のように持っている「悪」を求める本能ゆえでしょうか。確かに人は凄惨な連続殺人事件に胸を痛めるとともに、ワクワクする楽しみに似た感情をも併せ持つ。かくいう僕もその一人。悲しいかな、人間とはそういう生き物なのかもしれません。
  しかし、そうかと言って、いかに何でもありの芝居の世界であろうとも、リアルな猟奇的シーンなどというものは中々描けるものではありません。目の当たりにすると引いてしまう一線というのがあって、どうしても安全側で作ってしまうのが人情というもの。よしんば、頑張ってその一線を越えたとしても、そんなものを見せた日には、お客様に引かれること請け合い。

  ところが、なぜか「原作・江戸川乱歩」と銘打たれると、これが途端に免罪符を与えられたかのように、双方安心して楽しめてしまうということがままあります。「乱歩だからね」「これくらいは出て当然だろう」的な・・・これはいったい何故なのでしょうか。
  江戸川乱歩というビッグネームがそうさせる? 確かに。また、そこには文学という、芸術的昇華の要素もあるでしょう。しかし、何より僕が強く感じるのは、それらの異常な登場人物に対する乱歩の優しいまなざしです。それがそういった人物や行為をある種許してしまう効果をもたらすような気がするのです。側から見るとその行為自体は異常だけれど、それに至るプロセスには誰しもちょっとした共感を覚えてしまったり、ともすれば羨ましさすら感じてしまう。乱歩マジックとでも言いましょうか。

  ともあれ、乱歩はそういった異常者の中にも我々との共通点や、長所を見出せる特異な作家であったと言えるでしょう。この感覚は、人間にとってとても大切なもののような気もします。子供の頃夢中になって「少年探偵団シリーズ」を読みふけっていた時に感じた絵もいわれぬ後ろめたさ、大人の陰の世界を垣間見たようなイケナイ感覚・・・。
  「乱歩の変態作品など子供に読ませてはいけない」というエライ先生もいるようですが、僕は真っ向反対意見。逆に乱歩作品のような確かな「陰のバイブル」に触れさせることこそ、異質なものをも理解し認められる、戦争やテロや悪質な宗教になど加担しない、広くて深い人間性を育むのだ、とは少々言い過ぎでしょうか。笑

うつし世は夢、夜の夢こそまこと・・・。
  このカジュ通信が皆さんのお手元に届く頃(2018年夏)、大乱歩は53回目の命日を迎えます。

20190128_214109

紅月劇団初のイケナイ?シーン(「grotesque 〜一休と地獄太夫〜」より)

2018年夏号 紅月劇団 石倉正英

| コメント (0)

約束はお約束

「一生君のことを愛し続ける」「二度とやりません」「一生のお願いだから」・・・。
「約束は破られるためにある」と言ったのは、アリストテレスでしたでしょうか、はたまた麻生太郎副総理? そう、この世で交わされる約束の7〜8割は、結果、破られているような気がします。「花は散るからこそ美しい」的な論理で考えれば、約束は破られるからこそ、儚くも美しいものにもなり得るような気もします。
 しかし皆さん、絶対に破られない約束のカテゴリーがあるというのをご存知ですか? 約束の頭に「お」をつけてみてください。そう、「お約束」。それこそは、成立したが最後、絶対に果たされる約束だと言っても過言ではないでしょう。しかも、得てしてそれは言葉による契約でないことが多いのです。

  例えば、待ち合わせ場所に30分も遅れてきた友人Cがありました。待っていたAとBの二人は呆れながらもこんな会話を交します。
  A「Cの奴、絶対『お、早いねぇ』って言うよ」 B「ああ、悪びれもせずにね」
  C(登場し笑顔で)「お、早いねぇ」  A・B「やっぱり(笑)」
  この場合、CとA・Bとの間には事前の言葉による約束はありませんが、暗黙の「お約束」が成り立っていて、かつ、裏切られることなく果たされたがゆえに、30分の遅刻を大目に見てもらえた、という寸法です。
  これは、いわば「経験の積み重ね」が約束の役割を果たしているわけですが、経験の積み重ねがなくとも「お約束」を成立させるのが芝居というもの。

  例えば、皿と箸を出して、役者が食べる真似をすれば、お客さんも、そこに料理があるものと思ってくれる。人を刺すシーンで、本当に刺さなくても役者が迫真の演技をすれば、思わず「うわ!」と声を上げてしまう。演技的な技術はもちろんですが、そこにないものを見たり、あたかも実際に行われたかのように感じるのはお客さんの心ですので、そこには知らず知らず、演じ手との間に「お約束」が交わされているのです。
  この約束のおかげで、芝居にCGは必要なくなるのです。逆に言えば、CGで処理しないからこそ、芝居は面白いのです。今風に言えば、お互いの心の中に共通の仮想現実が展開される、とでも申しましょうか・・・。

  ある作品のラストで、主人公が「溶けてなくなる」とト書きに書いたことがありました。それをどう表現するかが、我々の手腕であり楽しみであったわけです。まだ見ぬお客さんとどんな「お約束」を交わそうか・・・。

  さて、本番でそれはどんな形で演じられたと思いますか? その答えは・・実際の舞台を見てのお楽しみということで(笑)。
  そう、それは決して、言葉では言い表せない、まさにそれを目にした人との、その場でしか成立し得ない特別な「約束」なのでございます。

20190128_213422

この後、見事に溶けて無くなります(「テンペスト」より)

(2018年春初夏号) 紅月劇団 石倉正英

| コメント (0)

より以前の記事一覧