石倉正英の「テアトロ・カジュ」(ISHIKURA)

木 霊

Theatrekhaju20170120 ママに扮して魅惑のボイスを披露する某役者(ファウストより)

皆さんにとって心地よい声とはどんな声ですか?
   濁りのない澄んだ声? 温かみのある鼻にかかった声? はたまたセクシーなハスキーボイス? 人それぞれ「好きなタイプの声」があるかと思いますが、特段好きでないタイプの声の中にも、時として心地よい声というのがあるのではないでしょうか。
 では、もう一つ質問です。「自分の声が好き!」という方はいらっしゃいますか? 誰もいない? 一人も? そう、自分の声を録音したものを聞くことほど、嫌なものはないですよね。概して人は自分の声は好きではないもの。

うちの劇団に、その声のファンが多い役者がいるのですが、その彼ですら、うちに来た当初は「自分の声が嫌で嫌で」と言っていましたから、この法則は誰にでも当てはまるのではないかと思います。そう、どんなナルシストでも、自分の声だけは我慢がならないと思っているのではないでしょうか。

台詞劇にとって役者の声は命にも等しいもの。お客さんに届く大きな声を出せるように、心地よく聞いてもらえる声を出せるように、誰しも努力を惜しみませんが、一方で、大きいけどけっして心地よいとは言えない声を発する役者も少なくありません。この違いは一体なんでしょう?

これは、僕はひとえに「不自然さ」ではないかと思っています。どんな声でもその人が無理なく自然にのびのびと発している声は耳に心地よいもの。好きではないタイプの声の中にも、時として心地よい声があるのはこの理由によるのだと思います。もちろん、役やシーンによっては耳障りな声を求められることもありますが、まず、その人にとって一番自然な声とは何かを見つけること、そして、いつでもそれを出せるようにすることこそ、発声の第一歩であると僕は考えています。

自分の声を聞く機会といえば、もうひとつ、「こだま」がありますね。日本では「木の霊が真似して返す」と思われていたことから「木霊」と書きますが、西洋のそれはもう少し切ないお話が元になっているようです。

英語で木霊は「echo(エコー)」。その語源はギリシャ神話にまで遡ります。おしゃべり好きのニンフ(妖精)・エコーは浮気者の神・ゼウスの妻ヘラの怒りを買って、人の言うことを繰り返す以外、声を発せなくされてしまいます。恋した美男子ナルシスにも気持ちを伝えられず、ただ彼の言葉を繰り返すのみ。誤解を招いたエコーは悲しみのあまり消え失せて、最後には声だけになってしまうのです。

なんとも切ないお話ではありませんか。ああ、だから自分の声はなんとも嫌な感じに聞こえるのか・・・いえいえ、このかわいそうなエコーのためにも、皆さん、もう少し自分の声を愛してあげてください。ひょっとすると、それが素敵な声になる第一歩かもしれませんよ。

2017年初春 紅月劇団 石倉正英

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シェイクスピア!

このたび、おかげさまで20周年記念公演の第三弾「テンペスト」が盛況のうちに無事幕を閉じることができました。ご来場いただいたみなさん、応援いただいたみなさんに心より御礼申し上げます。

「テンペスト」はウィリアム・シェイクスピアの最晩年の作品で、日本では「あらし」と訳される傑作スペクタクルです。娘とともにたった二人、地中海の孤島に追いやられたミラノ公国の王・プロスペローが、たまたま島の近くを通りかかった敵どもを、魔法の力で嵐を起こし、復讐するも、最後には「許し」を与え全員と和解する、というお話。 世界では宗教や主義の違いに端を発した報復の連鎖が今現在も続いていると言えますが、すでに17世紀において、シェイクスピアは「許し」と「和解」こそが憎しみを終わらせる唯一の方法と説いています。

私としては久々、他の作家が書いた作品、それもかのシェイクスピア御大の作品を取り上げるということで、色々な発見や刺激がありました。 思い起こせば、当初は、某お寺の境内での野外公演を考えていたので、舞台は鎌倉、復讐劇ということで比企一族のエピソードを絡めて完全に書き直すつもりでいたのですが、色々な事情や偶然の導きにより、北鎌倉のツドイという屋内空間を舞台にすることになり、その空間のインスピレーションから、ふと、シェイクスピアの言葉をそのまま使ってみようという意識に変化していきました。

ということで、今回はシェイクスピアのセリフ一つ一つと実に真正面から向き合うことになったのですが、そういう目で見てみると、彼の脚本を書く上での苦労を目の当たりにした気がしました。この説明的なセリフを言わせるためにわざわざこんな聞き方をさせているのだな、とか、構成上の苦労などなど。実にホッとしたというか、いかにシェイクスピアといっても同じ悩みをかかえ、苦労して書いていたことが分かっただけでも、私にとっては大きな収穫。笑

それと普段「心情は言葉にしない、行間に押し込める」ということを肝に銘じている私にとってみると、心の中をそのまま発語する西洋演劇の典型的なセリフの数々は、鬱陶しいったらありゃしない! そこは日本の鎌倉で、それも我々紅月劇団がやるのだから、という強い意志の元、徹底的に重要な?セリフを削って行間に押し込めていくという作業は、何とも胸のすく作業でありました。

2016年秋 紅月劇団主宰 石倉正英

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MASKⅡ

Mask_2     ヌビアの仮面(石倉コレクション)

皆さんは、昨年、東京都庭園美術館で行われた「マスク展」をご覧になりましたか? フランスの国立ケ・ブランリ美術館所蔵のコレクション展で、特にアフリカの貴重な仮面がたくさん展示されていました。私なんぞは、ただもうひたすら「ハー」「ホー」「へー」「オー!」を繰り返すばかりの至福の時間でしたが、その個性豊かな芸術性あふれる造形や色遣いには、キリコやエルンストらの原点を見る思いがしました。
5つ書いたら一休み。S.6の「MASK」に引き続き、今回のテアトロ・カジュは仮面にまつわるエピソードを、またひとつご紹介したいと思います。

広大なアフリカ大陸には、その部族によって様々なテイストの仮面がありますが、その一つ、エジプトのナイル川上流、アスワン・ハイ・ダムあたりから南方一帯にヌビアという民族がいて、彼らの仮面もまた素晴らしいのです。

かつてエジプトを訪れた折、まさにアスワンの街を歩いているとヌビアの仮面ショップが! すかさず入ると店内に所狭しと並べられたヌビア面の数々。いやもう、どれにしようか、あれも欲しい、これも欲しい・・・が、その値段を聞くと飛び上がるほど高い。そう、エジプトは値段交渉無くして物が買えない国だということを思い出し、こちらの心の内を完全に見透かされた店主とのディスカウント交渉にうんざりしつつも、最も気に入った宇宙人を彷彿とさせる仮面を、そこそこの価格で購入したのでした(写真)。

そしてここ数日の宿となっていたナイル川に浮かぶ船に戻った時、事件は起こったのです。夕食に行く途中、仮面を手に入れてホクホクしていた私は、身も心もリラックスしたためか、はたまた昼間食べたモロヘイヤ・スープに当たったためか、やおら催し、トイレに駆け込みました。このトイレ、個室でありながら妙に広い。なんとも言えない落ち着かなさを感じつつ用を足していると・・・おもむろにドアが開き、ななななんと、白人のオバさんが入ってきたではありませんか! 二人とも目が合った瞬間「オー!」。しかしそのオバさんは、謝りもせず、不快そうな顔で舌打ちすると殊更激しくドアを閉めて出て行ったのでした。

「被害者は俺だ!」と、カチンときた私は自分の状況も顧みず、勇ましくこう言ってやりました。

「Knock the door!」(ノックしろ!)。するとそのオバさん、悪びれもせず、ドアの向こうからこう切り返したのです。

「Lock the door!」(ロックしろ!)。

「確かに・・・」、その鮮やかな切り返しに思わず頷いてしまった私が、その後、恥ずかしさのどん底へと突き落とされたのは言うまでもありません。

2016年夏 紅月劇団 石倉正英

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デビッド・ボウイ追悼

〜あるいは、芝居と音楽のやんごとなき関係〜

芝居にとって音楽とは、空気感や雰囲気を与えるものであり、間を作るものであり、切るものでもあり、インスピレーションを与えるもの。芝居にとってそれはとても重要な構成要素の一つです。それゆえ、良い音楽との出会い、良いミュージシャンとの出会いは、良い芝居を作るための必要不可欠なことと言えましょう。

僕の場合、芝居を始めたばかりの頃は、既製の音楽の中から芝居にあったものを探してつけておりました。その後、才能あるギタリストと出会って、芝居のイメージに合う音楽を、キーボードやギター、Macなどを駆使して作ってもらい、それをCDに録音して当てる、という時代を迎えました。いわばレディメードからオーダーメードにグレードアップして、よりこだわりのある芝居に進化したように思ったものです。何より、音楽の著作権から解放されたのが嬉しかった!笑

しかし、ここでひとつの大きな問題に直面することになります。「尺(=長さ)」という問題です。そう、芝居は生ものですから、その日、その時、役者や観客の状況によって常に長さが変動します。もちろん、一分一秒単位できっちり「尺」を決めた演出もありますが、逆に都度伸縮してしかるべきと捉えている僕の芝居では、それは避けようのないジレンマだったのです。綿密な打ち合わせで決まったはずの「尺」を守って正確に打ち込まれた音楽は、その時の「なり」で伸縮してはくれず、早く終わってしまったり、逆にえらく余ったり、仕方なく長めに作っといてフェードアウトさせるか、という妥協案に落ち着くしかなくなってしまうのです。そして必然的な結果として、生で色々な楽器を操ってくれるミュージシャンと一緒にやることに落ち着いたというわけです。

もうひとつ、古楽器との出会いも僕にとっては大きなターニングポイントでした。電子的な音楽や、アンプやスピーカーを経て聞こえてくる音楽に合わせる絵も言われぬ違和感、それはそれで面白くもありましたが、古楽器から出てくるプリミティブな音色は、まさに木の音であり、風の音であり、人や動物の息の音でありました。人の声と調和する自然の音。この音に出会ってしまったが最後、最早これ以外ない!と思ってしまったのです。

音楽といえば・・・、大学2年の時、初めて脚本を書き演出した作品のテーマ曲として選んだのがデビッド・ボウイの「ヒーローズ」という曲でした。その彼が、ご存知の通り今年の1月10日に亡くなりました。いわば僕の芝居はデビッド・ボウイの音楽で幕を開け、彼が亡くなった年に劇団創立20周年を迎えた格好となります。なんとも不思議な縁を感じますし、実際、彼の音楽やパフォーマンスに、僕自身、とても大きな影響を受けてきました。常に変わり続け、世界を刺激し続けてきた彼の作品や生き様をお手本に、これからも芝居と音楽の良き有り様を探求し続けたい。

晩年の傑作「The Next Day」を聞きながら、今、そんなことを考えています。

2016年春 紅月劇団 石倉正英

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セリフの覚え方

「よくあんなにセリフが覚えられるものですね」と言われることがしばしばあります。 確かにモノローグの長ゼリフとなると、A4 サイズにして2枚に渡ることもあり、やったことのない人からすれば、特殊能力に思えるのかもしれませんね。でもこれだけは確実に言えますが、誰でも覚えられるものなんです! え?嘘だろうですって? フフフ。
記念すべき第10回目のテアトロ・カジュは、このセリフ覚えの秘密について紐解いてみたいと思います。 

と言っても、役者が皆すんなり覚えられるわけではなく、うちの劇団にも、毎回七転八 倒の苦しみと共にやっとこさセリフを覚える役者もいます。しかし、僕の場合はというと、 自慢じゃありませんが、セリフを覚えるのにあまり苦労をしたことがありません。といっても、昔から暗記は不得手ですし、覚えるコツがあるわけでもないのですが、強いて言え ば、「セリフを覚える」という感覚ではなく、「結果的に覚えてる」という感覚に近いように思えます。

セリフの覚え方には概ね2タイプあるように思えます。一つは文字通り「一字一句暗記 する」タイプ、もう一つは「結果的に覚えているタイプ」。どちらが良いというのはありませんが、どちらも良い面と悪い面があることは事実。僕の場合は明らかに後者で、何度か稽古で合わせていくと自然とセリフが身についてくるので「覚える」苦労はあまりない のですが、反面、流れのない、支離滅裂なセリフなどは甚だ不得意です。
一方、暗記する タイプは、セリフを入れるのには苦労しますが、台本に忠実で、支離滅裂なやりとりも難なくこなす。いわば台本を理論的に捉えるか、記号的絵画的に捉えるかの違いかもしれません。どちらにせよ、最終的に「自分の言葉」にすることが大切なので、アプローチの仕方は好き好きで良いのですが。

一方、我々役者にとっては「忘れる能力」というのも結構大切です。たとえば、本番中にセリフを間違えてしまった。この「間違えた」ことをいつまでも覚えているとろくなことになりません。「次のシーンのセリフ、ちゃんと出てくるだろうか」という疑心暗鬼は、 必ずやさらなるセリフの間違えを誘発します。こんな時になすべきことはただ一つ、早々 と「忘れる」ことです。

とかく人は記憶していることを良しとしがちですが、この忘れる能力というのも、案外、 人間社会において有効な力のような気がします。自分の失敗を早いとこ忘れたいように、 他人の失敗も早いとこ忘れてあげることで、世の中は実に円滑に回っていく。そう、この 忘却力こそが、世界を救う唯一の方法・・・というのは少々言い過ぎでしょうか(笑)。

痛々しい自画像が印象深いメキシコの女性画家フリーダ・カーロの生涯を描いた映画の中、結婚を決めた彼女と父親との間で、こんな素敵な会話が交わされるシーンがあります。 「パパ、結婚生活を長く幸せに続ける秘訣は?」「ショート・メモリー」

紅月劇団 石倉正英 (2016年新春号)

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スローモーション

「超ゆっくり歩いてみてください」と言われると、人は途端にヨロヨロとぎこちなくなってしまうもの。あれ? 普段どうやって歩いてたっけ? と、頭で考え出したらもう最後です。この漢字、これで良かったっけ? と悩むのに似たループに果てしもなく陥ってしまいます。歩く動作だけでなく、普段無意識にしている動作をゆっくりやるのはとても難しいものです。試しに、超ゆっくり指折り5つ数えてみてください。ね、手がプルプル震えてくるでしょう?

今回のテアトロ・カジュは、この「ゆっくりした動き」すなわち「スローモーション」にスポットを 当ててみたいと思います。

普通のスピードの動きでも、舞台の上で普段通りにやろうとすると、なぜかぎこちなくなってしまうのが人情です。無意識に振舞っている動作に意識が介在することで、動作をぎこちなくさせてしまうのです。では、舞台上でも無意識に振る舞えばいいじゃないか、というと、事はそう単純ではありません。ある程度決められた動作をする必要がある上に、お客さんからの見られようも意識する必要があるからです。ではどうやってそれを克服するか・・。それにもっとも役立つのがスローモーションのトレーニングだと僕は考えています。ゆっくりした動きを繰り返しトレーニングする事で、ある程度意識が介在してもスムーズに動けるようになり、やがては適度に意識を抜いていく事ができるようになってくる。子供の頃、見よう見真似で習得した人間的動作というものを、もう一度学び直すような作業ですね。

僕のバイブルといっても良い「弓と禅」という本があります。ドイツの哲学者、オイゲン・ヘリゲルが弓道を習い、最後は五段の免状をもらうまでになる一部始終を記録したものですが、西洋人の合理的な視点で日本の武道という非合理的なものを見つめる、それが故にとても分かりやすく、面白く、そして日本人師範の教えの言葉がいちいち胸に突き刺さってくるという名著です。

その中で、必死に弦を引こうと頑張っているヘリゲルに師範がこんな事を言う場面があります。
「腕の筋肉を使って引くのではなく、腕の筋肉は引く手を見ているようにしなさい」と。なんとも不可解な言葉ですが、この言葉がふっと腑に落ちたのは、まさに最近やった舞台の本番でのことでした。土下座したところで皆が去り、その行く手を見ながらゆっくり上体を起こす、まさにその時、意識は完全に去りゆく人物にありながら、必要最低限の筋肉に上体を起こす動作を全て任せられた気がしたのです。僕にとってそれはまさに、余計な力を使わずに弓の弦を引けるようになる瞬間に似たパラダイム・シフトでありました。心に無限の自由が与えられたと言ったら大げさですが、これもひとえにスローモーション・トレーニングの賜物と、一人頷いていたのでした。

紅月劇団 石倉正英 (2015年秋・冬号)

Ishikura_sanada
(「真田の城」より Photo by 折笠安彦)

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小道具

岩や建物など舞台セットとなるようなものを大道具、役者が手に持ったり、動かしたりするものを小道具と言います。例えば、刑事が舞台上でタバコを吸う、この場合のタバコは小道具であり、当然のことながらタバコを吸うシーンだから使われているわけですが、そのシーンの位置づけや登場人物の心情に目を向けると、タバコは単なるタバコという存在を超越し、様々な意味やイメージを持ってくる・・。皆さんも、映画や舞台を見ていて、時折そんな風に感じられることがあるのではないでしょうか? 今回のテアトロ・カジュは、単なる「モノ」にとどまらない小道具の奥深さに触れてみたいと思います。

自分の作品を作り始めて間もない頃、女性が小刀で自らを刺して死ぬシーンがありました。そこで僕は役者が怪我をしないように、東急ハンズで、刺すと刃が引っ込むジョーク・ナイフを買ってきて使ったのですが、本番を終え、お客さんのアンケートを読んでみると、それがジョーク・ナイフだということがバレバレだったのでした・・。僕は、その時卒然と、どんなに小さなものでも、舞台上に出て来る何一つとして、おろそかにはできないのだということを痛感したのでありました。

そう、小道具は舞台に上がった瞬間に様々な意味を持ってくる。いわば、象徴物となるのです。死の直前にその女性にじっと見られた小刀は、その女性の生から死に向かう「思い」の表徴となるはずで、ひょっとするとそこにはその女性の人生の全てが乗ってくるのかもしれない・・。

チェコにオブジェクト・シアターという演劇のジャンルがあって、これは芝居の進行とともに一つの「モノ」を横にしたり、ひっくり返したりして、様々な形、意味に変化させていくお芝居。そこでは、小道具の象徴性が存分に発揮されていて面白いのですが、今から10年ほど前に、長年オブジェクト・シアターを牽引してきた舞台美術家・ペテル・マターセクさんのワークショップを受ける機会を得ました。これが実に発見と気づきの連続だったのですが、最後の最後、とても面白い課題が与えられました。なんと「新聞紙で水を表現しなさい」というのです。参加メンバーからは「新聞を燃やし、その灰を雨のように降らせるとそこから植物の芽が出てくる」など、興味深いアイデアがたくさん出されました。単にリアリティのある小道具を使えばいいというのではなく、イメージ一つで小道具はいかようにも面白く化けていくということを教えられたのでした。

さて、その後再び、小刀で人が死ぬというシーンを作る局面が訪れました。少しグレードアップした僕がジョーク・ナイフの代わりに用いたのは・・厳選した短い竹の棒。幸いにして、賢明なお客さんはそこに色々なイメージを重ねて観てくれたようでした。

紅月劇団 石倉正英 (2015年初夏号)

Kodogu
竹筒作戦!」その後ギャグシーンに転用された竹の小刀
(「新田義貞の稲村ガ崎越え!」より Photo by Sekino Naoko)

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丹田

僕の生まれ故郷、群馬県は沼田市から南に20kmほど行った所に渋川市というところがあって、「へその町」と称しています。地理的にちょうど日本の真ん中になるから「へその町」なのだそうです。このように、あなたの中心はどこですか?と聞かれたら、「おへそ」と答えられる方が多いのではないでしょうか。しかし、お芝居の世界で役者さんにそれを尋ねると、「へそ」よりも少し下を指す人が多いことでしょう。それは普通の人よりも足が長いのを自慢している訳ではなくて、そこが「丹田(たんでん)」と呼ばれる場所だからなのです。

ご存知の方も多いと思いますが、「丹田」とは「おへそ」よりも指何本か下にあると言われている、具体的な形を持たない場所のことです。「丹田」という言葉は知っていても、ここだ!と明確に意識できる人はあまりいないと思いますが、案外、これを実感することは簡単で、あることを行うと誰でも「ああ、ここか」と認識することができるのです。その「あること」とは・・・僕のワークショップの最初に必ず紹介していますので、ご興味ある方は是非一度受けていただければと思います。フッフッフ。

丹田とは体の中心であるとともに心の中心でもあると僕は思っています。たくさんのお客様の前で演技することはとても度胸のいることですが、そこを依りどころにすると不思議と気持ちが落ち着いてくる。人との会話においてもそう。今時の速い会話は頭で行っていることが多く、つい浅薄になりがちですよね。相手の言ったことを一度丹田まで飲み込んでよく消化し、そこからわき起こる思いを発語すれば、とても深く、面白い会話がなされるはずです。もっとも現代では、そうしている間に間が持たなくなって、相手が別の話を始めてしまいそうですが。笑

 

体の話に戻りましょう。山道など足下の悪い所を歩く時、丹田に意識を置いてみてください。体の軸がしっかりして案外楽に歩けることを実感されると思います。加えて体幹を鍛えておけばもう無敵。夜道で人に襲われても容易に倒されることはまず無くなるでしょう。(注:効果には個人差があります。笑)

さて、今から数年前のこと。東京のそこそこ混んでいた中央総武線の車中で、にわかには信じられない光景を目撃しました。隣に立っていた若い女性が、吊り革につかまりもせず、おもむろにアイラインを引き始めたのです。ガタゴト揺れ動く車中にあって、微動だにしない体の軸。迷い無く目蓋に引かれていく一本の美しいアイライン・・・。急停車したら危ないじゃないか、などという言葉は愚昧です。彼女は丹田を極めている! 彼女の立ち姿の美しさに、しばし僕はポカンと見とれていたのでありました。

紅月劇団 石倉正英 (2015年春初夏号)

Duke
丹田のトレーニングに励む愚犬・デューク

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MASK

数年前、上海に行ったときのこと、ホテルに帰ろうと地下鉄の駅に降りていったところ、コンコースで仮面の特別販売が行われていました。仮面のコレクターでもある私は、水を得た魚のように、目は爛々、一も二もなくその会場に飛び込むと・・・何だこれは!?
それらの仮面は今まで見たこともないような、奇怪な顔のオンパレード。例えるなら、地獄の鬼、魑魅魍魎、荒ぶる神々の恐ろしい形相さながらの、それでいてどこかユーモラスな表情の数々が、一つ一つ丁寧に手彫りされている。特に彩色されるでも無く、木そのものの質感に、茶系の上薬が塗布されているだけのシンプルさが、返ってそれらの表情をいっそう生き生きとさせているのでした。

感激した僕は、日本語も英語もまったく話せない売り主(作家?)のおじさんとハグしあわんばかりに意気投合し、一生懸命説明してくれる仮面の話を何一つ理解できぬままウンウンとうなずき、厳選した二つの仮面を購入してホクホク顏で帰国したのでした。

仮面とお芝居は切っても切り離せない、面白くも深い関係がありますが、それについてはまたの機会に触れるとして、この仮面、その後調べるすべも無く「?」のまま、長い間、我が自慢の仮面博物館(書斎)の壁に独特の存在感を放って鎮座しておりましたが、ひょんなことから出自が判明しました。

今から一年半ほど前、早稲田大学の演劇博物館で催された「アジアの仮面展」を観に行ったときのこと、なんと中国のコーナーにまったく同じ仮面があるではありませんか!
その説明によれば、中国の貴州省のある地方に伝わる「儺戯(なぎ)」という地芝居に使われる仮面とのこと。「戯」とはお芝居の意。「儺」とは辞書を引くと「疫病の神を追い払う儀式」を意味するとあります。一方、仮面展での説明では、貴州省のそれは、明代に住み着いた軍属が作った軍記物がルーツなのだそう。敵軍を疫病に見立てたということでしょうか? はたまた、疫病にかこつけることで権力の目を欺き、真実を後世に伝えようとしたのでしょうか? 想像が膨らみます。

そう言えば、岩手県に伝わる鬼剣舞(おにけんばい)という、奇怪な仮面をつけて踊る踊りも、一節には大和朝廷に滅ぼされた蝦夷の民の戦いを表現したものだとか・・・。歴史は勝者によって作れるもの。
しかし滅ぼされた側も、自身の文化やスピリッツというものを、こんな形で案外しぶとく残しているのかもしれませんね。

あの時、おじさんが熱く語っていたのもこんな話だったら面白いなと、くだんの仮面を眺めつつ、しばし妄想に耽っていたのでありました。

                                    

紅月劇団 石倉正英 (2015年新春号)

Mask
上海で入手した仮面(石倉コレクション)

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伸び縮み歪み

「自在に伸びたり縮んだりするものなんだ?」と聞かれたら皆さんは何を思い浮かべますか? ゴム? 如意棒? 芝居の世界でそれを聞かれたら・・・答えは「時間」です。アインシュタインによれば、時間は伸び縮みするものだそうですが、ここで語ろうとしているのはそんな難しい話ではありません。

シェークスピア劇をご覧になったことがある方なら、こんな思いにとらわれたことがあるかもしれ ません。人の死の間際、それを看取る恋人が朗々とその人への愛の言葉を語り聞かせたり、逆に死に行く人が恨みつらみを延々と述べ立てたり・・・。この局面でこんな風に長々話せるはずがない、と。そう、現実の世界ではあり得ない時間の「伸び」がそこにあります。

逆に能の世界では、旅の僧が登場して、私は日向の国の某と名乗って数歩進み「阿漕ヶ浦に着きにけり」と言うと、宮崎から三重の阿漕ヶ浦まで一瞬で移動することができる。すなわち、都合の良い時間の「縮み」がそこにあるのです。

そもそも映画や小説と違って、一瞬の煌めきを描く芝居という芸術では、こんな風に都合よく時間が伸び縮みしてくれないと、とても見られたものにならないのです。数年前に流行った「24」のようなリアルタイムの進行方法は、芝居の世界ではできたとしてもせいぜい2時間が限界。逆に言うと、ここぞという一瞬を数分間に伸ばすことで、そのとてつもなく密な一瞬をたっぷりと描き出すことができるというのが、芝居の魅力でもあるわけです。

時間の伸縮に加えて、良い舞台にはごく希に空間的な歪みが発生することがあります。そういう芝居に出会えるのは一生に一度あるかないかとも言われていますが、幸いにして僕はかつて一度だけそれを観る機会に恵まれました。

忘れもしない今から10年ほど前のこと、鎌倉芸術館の大ホールに作られた仮設能舞台でそれは起こりました。現在最高の能役者とも評される関根祥人さんがシテ(主役)を務めた「道成寺」。にわかには信じがたいことが起こりました。彼が座ると床が沈み、彼が乱拍子を舞うと空間が波打った。僕はただただあっけにとられていました・・・。信じられないかもしれませんが、それはそこで実際に起こったことです。正確に言えば、そう錯覚したのです。「能を観るならシテを観よ」と言いますが、それほどの幻覚を引き起こした関根祥人さんという役者にただ敬服するとともに、時空間の伸び縮みを自在に現出せしめる芝居という芸術に、無限の可能性を感じた瞬間でありました。

紅月劇団 石倉正英 (2014年秋・冬号)

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写真家のテクニックによって引き起こされた「歪み」
(「椿説・石橋山の戦い」より Photo by Tanaka Makiko

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