石倉正英の「テアトロ・カジュ」(ISHIKURA)

Coffee & Cigarette

 大学時代、影響を受けた先輩の一人M氏には、実にいろいろなことを教わりました。煙草、酒、珈琲、音楽、ビートニクス、etc・・・。群馬の片田舎で生まれ育った僕には、そのどれもが新鮮で格好良く、そして大人の男の匂いに溢れていました。

 そのM氏が語ってくれた中で、なぜかいまだに心に残っているのが「煙草を吸っていれば、いつまでも喫茶店に居られる」という言葉。その真意は、ゆっくり珈琲を冷まし飲みながら物思いに耽りたいとき、煙草をくゆらせていると店の人も他の客も、何ら気を止めないでいてくれるということ。「分煙」という言葉がまだなかった頃の話です。

  確かに煙草も吸わず、本も読まずに長々物思いにふけっている客がいたら、何か相当悩みを抱えているのでは、などと邪推を始めてしまうかもしれません。この場合、煙草というアイテムが実に良い効果を発揮して、そういった意識を文字通り「煙に巻いて」くれるのでしょう。

 これを聞いた当時の僕は、耽る物思いもないくせに、暇さえあれば喫茶店に行って長々煙草をくゆらせて珈琲をすすったものでした。「形から入る」とはまさにこのこと。次第、考え事をするときには喫茶店に行くようになり、煙草を吸わなくなった今でも、脚本を書く時は喫茶店に行き、美味しい珈琲を傍に置いて、というスタイルが身についてしまいました。

 ちなみに「くゆらせる」とは「燻らせる」と書き、その意味は辞書で引くと「ゆるやかに煙を立てる」こと。しかし、煙草と紐づくと、この言葉はその意味だけには留まらなくなって、人差し指と中指とで挟まれた煙草からゆるやかに立ち上る紫煙が、柔らかな風に乗って自分のまわりを取り巻いて、付かず離れず、良い距離感を保って揺蕩うている様を表すような、より深い意味を纏ってくるような思いがします。あたかも、程よいパーソナルスペースを視覚化してくれるような・・・。
  その空間の中で男は美味しい珈琲を味わいながら物思いに耽る一人の時間を、何に気兼ねすることなくゆっくり過ごすことができるのです。これをダンディズムと言わずして何と言いましょうか。笑

 煙草が電子化されて、他人に迷惑をかけずにニコチンを効率的に摂取する機械と化し、「煙草をくゆらせる」という言葉が死語になりつつある今日、嫌煙者にとってはまったく結構な時代になりましたが、一方で男は煙とともに男としての重要な何かを失っていくような寂しさを感じます。

 そんな失われゆくダンディズムへのオマージュとして、故かまやつひろしさんの名曲「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」の一節を。

そうさ、短くなるまで吸わなけりゃだめだ
短くなるまで吸えば吸うほど
君はサンジェルマン通りの近くを歩いているだろう

2019年初春号 紅月劇団 石倉正英

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久生十蘭

 演劇初心者から役者の方まで、幅広いメンバーで毎年取り組んでいる紅月劇団ワークショップ。その発表公演が10月13日〜14日にかけて我らがホームグラウンド「西御門サローネ」で執り行われました。今年の演目は「乱歩と十蘭」。江戸川乱歩と久生十蘭(ひさおじゅうらん)の作品を原作としたオムニバス形式の公演でございました。
  ということで前回のテアトロ・カジュでは乱歩について書きましたので、今回は「十蘭」について触れてみたいと思います。

  久生十蘭は乱歩と同時期、大正から昭和にかけて活躍した作家で、乱歩より8歳年下。そして乱歩より8年早く世を去った、生年も没年も8年差という、ちょっと奇妙な縁の二人です。
  その著作はユーモア小説からミステリー、ノンフィクションと多岐にわたり、その博識と技巧的作品から「小説の魔術師」とも呼ばれ、「ジュウラニアン」という熱狂的な愛読者を生み出しました。また、パリに遊学中はレンズ工学と演劇を学び、文学座の立ち上げにも関わるなど、演劇の世界にも身を置いていた人。さらに晩年住んでいたのが鎌倉の材木座、しかも今僕が住んでいる家のすぐ近くだったそうで、大学時代、機械工学科に席をおきつつ演劇に目覚めた僕としては、勝手ながらなんともいえぬ親近感を覚えてしまう人です。

僕個人の関わりとしては、今回のワークショップで取り上げた傑作短篇「ハムレット」や「湖畔」を一時間かけて読むという冒険的な朗読会を開いたり、「生霊」を題材とした「GHOST」という芝居を作ってみたりと、ひとかたならぬご恩を受けております。時を超えた「ご近所のよしみ」とでも言いましょうか。笑
  なんとも無駄のない歯切れの良い文章で、その発想力、展開力には舌を巻きます。まだ読まれたことがない方は、上記三作品から始められることをお勧めします。読了後はジュウラニアンの仲間入り必至です。

 面白いのは戦中の彼の活動です。厳しい検閲に影を潜めた乱歩と対照的に、十蘭は大政翼賛会の文化部に入ったり、海軍報道班員として従軍しつつ、大日本帝国賛美的作品を書いていきます。その時代の作品は今でも読むことができますが、そういった表現はされているものの、それを隠れ蓑にして「書く」という衝動や欲求を満たしつつ、更なる芸術的探求、進化を続けていたことがよく分かります。あたかも、ナチスの命を受けてベルリン五輪を撮った稀代の映像作品「オリンピア」の監督レニ・リーフェンシュタールのように・・・。ちなみにレニは戦後、ナチスの片棒を担いだ廉でドイツから追い出されることになります。   久生十蘭にしても、そうせざるを得ない状況というものがあったにせよ、軍国主義に与した行動を嫌悪する向きもあるでしょう。ただ、彼らが何に忠実だったのかといえば、国や軍などではなく「芸術」に忠実だったのではないかと僕は思います。

  終戦の翌年、真の表現の自由を手に入れた十蘭は、「ハムレット」を発表した後、材木座に移り住んで、「十字街」、「鈴木主水」(直木賞)、「母子像」(ニューヨーク国際短篇コンクール第一席)といった名作を次々と生み出して行くのでした。

2018年秋冬号 紅月劇団 石倉正英

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乱歩という免罪符

 ひょんなきっかけから、10月に予定している今年のワークショップ公演は、江戸川乱歩を取り上げてみようということになりました。そんなで久しぶりに乱歩を読み返してみたらば、あらまあ、今更ながらにエロ、グロ、猟奇のオンパレード。覗き魔にストーカー、猟奇殺人・・・本能や欲望に忠実に?生きる人々を肯定して余りある作品だらけ・・・。にも関わらず、乱歩の人気は老若男女を問わず、生誕125年を迎えようという今も衰えることを知らないようです。
  なぜ、乱歩の作品はかくも異常なのに、多くの常識的な人々にも受け入れられたのでしょうか。

人間が誰しも原罪のように持っている「悪」を求める本能ゆえでしょうか。確かに人は凄惨な連続殺人事件に胸を痛めるとともに、ワクワクする楽しみに似た感情をも併せ持つ。かくいう僕もその一人。悲しいかな、人間とはそういう生き物なのかもしれません。
  しかし、そうかと言って、いかに何でもありの芝居の世界であろうとも、リアルな猟奇的シーンなどというものは中々描けるものではありません。目の当たりにすると引いてしまう一線というのがあって、どうしても安全側で作ってしまうのが人情というもの。よしんば、頑張ってその一線を越えたとしても、そんなものを見せた日には、お客様に引かれること請け合い。

  ところが、なぜか「原作・江戸川乱歩」と銘打たれると、これが途端に免罪符を与えられたかのように、双方安心して楽しめてしまうということがままあります。「乱歩だからね」「これくらいは出て当然だろう」的な・・・これはいったい何故なのでしょうか。
  江戸川乱歩というビッグネームがそうさせる? 確かに。また、そこには文学という、芸術的昇華の要素もあるでしょう。しかし、何より僕が強く感じるのは、それらの異常な登場人物に対する乱歩の優しいまなざしです。それがそういった人物や行為をある種許してしまう効果をもたらすような気がするのです。側から見るとその行為自体は異常だけれど、それに至るプロセスには誰しもちょっとした共感を覚えてしまったり、ともすれば羨ましさすら感じてしまう。乱歩マジックとでも言いましょうか。

  ともあれ、乱歩はそういった異常者の中にも我々との共通点や、長所を見出せる特異な作家であったと言えるでしょう。この感覚は、人間にとってとても大切なもののような気もします。子供の頃夢中になって「少年探偵団シリーズ」を読みふけっていた時に感じた絵もいわれぬ後ろめたさ、大人の陰の世界を垣間見たようなイケナイ感覚・・・。
  「乱歩の変態作品など子供に読ませてはいけない」というエライ先生もいるようですが、僕は真っ向反対意見。逆に乱歩作品のような確かな「陰のバイブル」に触れさせることこそ、異質なものをも理解し認められる、戦争やテロや悪質な宗教になど加担しない、広くて深い人間性を育むのだ、とは少々言い過ぎでしょうか。笑

うつし世は夢、夜の夢こそまこと・・・。
  このカジュ通信が皆さんのお手元に届く頃(2018年夏)、大乱歩は53回目の命日を迎えます。

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紅月劇団初のイケナイ?シーン(「grotesque 〜一休と地獄太夫〜」より)

2018年夏号 紅月劇団 石倉正英

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約束はお約束

「一生君のことを愛し続ける」「二度とやりません」「一生のお願いだから」・・・。
「約束は破られるためにある」と言ったのは、アリストテレスでしたでしょうか、はたまた麻生太郎副総理? そう、この世で交わされる約束の7〜8割は、結果、破られているような気がします。「花は散るからこそ美しい」的な論理で考えれば、約束は破られるからこそ、儚くも美しいものにもなり得るような気もします。
 しかし皆さん、絶対に破られない約束のカテゴリーがあるというのをご存知ですか? 約束の頭に「お」をつけてみてください。そう、「お約束」。それこそは、成立したが最後、絶対に果たされる約束だと言っても過言ではないでしょう。しかも、得てしてそれは言葉による契約でないことが多いのです。

  例えば、待ち合わせ場所に30分も遅れてきた友人Cがありました。待っていたAとBの二人は呆れながらもこんな会話を交します。
  A「Cの奴、絶対『お、早いねぇ』って言うよ」 B「ああ、悪びれもせずにね」
  C(登場し笑顔で)「お、早いねぇ」  A・B「やっぱり(笑)」
  この場合、CとA・Bとの間には事前の言葉による約束はありませんが、暗黙の「お約束」が成り立っていて、かつ、裏切られることなく果たされたがゆえに、30分の遅刻を大目に見てもらえた、という寸法です。
  これは、いわば「経験の積み重ね」が約束の役割を果たしているわけですが、経験の積み重ねがなくとも「お約束」を成立させるのが芝居というもの。

  例えば、皿と箸を出して、役者が食べる真似をすれば、お客さんも、そこに料理があるものと思ってくれる。人を刺すシーンで、本当に刺さなくても役者が迫真の演技をすれば、思わず「うわ!」と声を上げてしまう。演技的な技術はもちろんですが、そこにないものを見たり、あたかも実際に行われたかのように感じるのはお客さんの心ですので、そこには知らず知らず、演じ手との間に「お約束」が交わされているのです。
  この約束のおかげで、芝居にCGは必要なくなるのです。逆に言えば、CGで処理しないからこそ、芝居は面白いのです。今風に言えば、お互いの心の中に共通の仮想現実が展開される、とでも申しましょうか・・・。

  ある作品のラストで、主人公が「溶けてなくなる」とト書きに書いたことがありました。それをどう表現するかが、我々の手腕であり楽しみであったわけです。まだ見ぬお客さんとどんな「お約束」を交わそうか・・・。

  さて、本番でそれはどんな形で演じられたと思いますか? その答えは・・実際の舞台を見てのお楽しみということで(笑)。
  そう、それは決して、言葉では言い表せない、まさにそれを目にした人との、その場でしか成立し得ない特別な「約束」なのでございます。

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この後、見事に溶けて無くなります(「テンペスト」より)

(2018年春初夏号) 紅月劇団 石倉正英

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十二夜

 これを書いている今、私の住んでいる鎌倉・材木座では光明寺というお寺の一大イベント「お十夜」の真っ最中です。「お十夜」とは、戦国時代に後土御門天皇より光明寺第九代・観譽上人に勅許された「十夜法要」のことで、三日三晩に渡って法要が行われるほか、稚児を交えた行列や夜店が出るなど、秋の材木座の風物詩となっています。何より毎年その入り口横に出る大判焼きがとても美味しい! 私のオススメはカスタード・クリーム。機会があったら是非食べてみてください。

この「お十夜」と時を同じくして、我が劇団のワークショップの発表公演が行われました。そして今回の題材は、奇しくも、シェイクスピアの「十二夜」だったのです。狙ったわけではないのですが、考えてみれば不思議なシンクロニシティでした。 「十二夜」とは、「東方の三博士」が生まれたばかりのイエス・キリストを発見した日、即ち、クリスマスから数えて12日目の夜のことで、キリスト教では「公現祭」という祝日となっています。クリスマス・リースも、この日まで飾られるのが習わしで、日本の「松の内」と、とてもよく似ています。ひょっとすると、キリスト教が信者を獲得するために取り込んだ、原始宗教の祝祭日とも何か関係があるのかもしれません。

今回の作品「十二夜」はシェイクスピアの傑作喜劇の一つで、その内容は、「双子の兄妹であるセバスチャンとヴァイオラが船の難破で離ればなれになり、イリリアに流れ着く。ヴァイオラは少年に変装するが、自分が仕えているオーシーノ公爵に恋をしてしまう。オーシーノは伯爵家の令嬢であるオリヴィアに恋をしているが、オリヴィアはヴァイオラを男だと思い込んで思いを寄せるようになってしまう。そこに兄セバスチャンが現れて・・・」と、話と恋がもつれにもつれまくるドタバタ劇。

面白いのは、劇中、「十二夜」に関する場面、話題がひとつも出てこないこと。内容とも全く無縁なのです。
ではなぜタイトルが「十二夜」なのか。これには諸説あって、いまだにはっきりとはしていません。最も有力なのは、初演が公現祭に行われたから、という説。だとしても初演の日からタイトルをつけるなんて、なんとも乱暴なネーミングではありませんか。とはいえ、私もタイトルを先に決めて提出しなければいけないことがままあるので、ひょっとするとシェイクスピアも「ああ、もう、とりあえず『十二夜』とでもしとけ!」てな感じでつけたのかもしれません。そんな作品が400年以上も上演され続けているのですから、芝居とは面白いものです。

それともう一つ興味深いのは、このお芝居のラストシーンです。 見事に絡まった恋が片付いて、物語は大団円を迎え、登場人物たちが全員退場すると、道化が一人、ポツンと残される。そこで一曲歌を歌うのですが、これがなんとも切ない歌なのです。「・・・さても悲しや嫁とれば、ヘイホー、風と雨、ホラは吹いても腹ペコで、毎日雨は降っていた・・・」。 道化の稼業、自分自身の存在の切なさを歌った歌で終わるのです。喜劇であるはずのこの作品のラストに配された、切実な、物悲しくすらある道化の歌・・・。
そして、乱暴なタイトルの喜劇を作り終えたシェイクスピアは、その後、「悲劇」の時代へと入っていくのでした。

(2017年秋 紅月劇団 石倉正英 )

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GHOST 〜K病院の怪~

今年はここ数年関わっている群馬は中之条ビエンナーレの開催年で、9/9〜10/9の一ヶ月間、国内外およそ150人のアーティストによる様々な展示やイベントが行われます。我々も、もはやホームグラウンドとなった旧養蚕農家・冨沢家住宅を舞台にした「GHOST」という作品を上演いたします(9/30〜10/1)。と、軽く宣伝させていただいたところで本題に入りましょう。今回のテアトロ・カジュは、納涼企画、新作の「GHOST」にちなんで、ひとつ怖いお話をしてみたいと思います。

  学生の頃、あるクラスメートが奇妙なバイトの話を持ってきました。巣鴨にあるK病院が建て替えになり、工事の間、夜間はお医者さんが不在になるので、一泊して、万一救急車がやってきたら、別の病院を紹介するだけという、ある意味おいしいバイトでした。これを友人数人でローテーションを組んで回そうというのです。若くトンガっていた僕らは、怖いからやめようなどという者はなく、即座に面白い、やろうやろう、ということになりました。先に任務に就いたやつらは、翌朝、口々に「余裕余裕」といい、そして、とうとう僕の番がやってきたのです。

  K病院は小さいながらも総合病院で、地上4階、地下2階のそこそこ大きなビルでした。工事中で真っ暗、誰もいない・・・そう、僕らの仕事は夜間の警備員も兼ねていたのです。

  執務室は1階の受付所。そこでTVを見ながら買ってきた弁当を食べ終えたその時でした。誰もいないはずの2階から、人のしゃべる声が聞こえてくるではありませんか! 勇気を振り絞って2階に上がっていくと、なんとラジカセからラジオが流れている! そう、僕らの寝床は2階の病室のベッドで、そこに仲間が目覚まし時計代わりにラジカセを持ち込んでいたのでした。この時、なぜか冷静だった僕は、ああ、前の当番のやつが目覚ましのラジオをかけ忘れたんだな、と納得、いや、言い聞かせてラジオを切り、下へと降りて行きました。

  執務室に戻ってホッとしたのも束の間、また2階から人の声が・・・。まだ辛うじて冷静を保っていた僕は「スヌーズだ、スヌーズ機能が動作したに違いない。ちゃんと電源を切らないと」と再び2階に上がり、今度はちゃんと電源を切って戻りました。

  しばらくの間、聞き耳を立てていましたが、音はせず、よしよし、やっぱりスヌーズだったと安心しきったその10分後・・・けたたましい大音量で音楽が鳴り始めたではありませんか! ドキー!! としつつも、しつこいスヌーズめ、と悪態をつきながら2階に上がるとカセットテープの重々しい再生ボタンが押されている・・安物のラジカセです、目覚まし機能でアナログな再生ボタンが押されるはずがありません。

「出たー!!」パニックになった僕は、外へ飛び出し電話ボックスから110番、さすがに幽霊が出たとは言えず、不審者らしき者が忍び込んだ模様と話して、警察官を派遣してもらうことになりました。到着した屈強な二人の警察官のなんと頼もしかったことか。一緒に全館回ってもらうと、誰もいない・・・。しかし、くだんの病室に行くと、中にあったものが全て廊下に出されていたのでした・・・。激しい幽霊もいたものです。  さて、この事件からちょうど1年後のこと・・・仲間内で飲んでいた時、この話を始めた僕を遮って、仲間の一人がこう言い出しました。「あれ、実は俺たちがやったんだ。お前があんまり冷静に対処するからついついエスカレートして・・・警察呼んだと聞いて、あわ食って今まで黙ってた。でも、もう時効だよな?(笑)」僕はいかりを通り越して、ただ笑うしかなかったのでした・・・。

(2017年夏 紅月劇団 石倉正英)

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嘘という名の演技

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花を愛でていると嘘をつき団子を狙う愚犬

 「人間は嘘をつく動物である」こんな格言を残した人は、歴史上いなかったと記憶していますが、人は多かれ少なかれ嘘をついて生きているように思えます。
 最近の学説では、犬も戦略的に嘘をついて人を騙す、とのこと。確かにうちの愚犬でさえ、怒られると分かっていることをしているのがバレた瞬間、「やってないよ」と嘘をつく風の行動をとる時があります。ミエミエなだけについ笑ってしまい、悔しいかな、彼の嘘はいつも成功を収めるのです。
 しかし、厳密に言えば、これは人のつく嘘とは質の異なるもの、つまり、主人に怒られないためには「そうする方が良い」という経験に基づく行動で、犬自体は嘘をついている感覚は無いような気もします。

 反面、「嘘をつく」というのは、芝居人にとっては面白い行動でもあります。何しろ、誰しもそこでは「演技」をしているのですから。リアリティのある演技をしないと、簡単に見破られてしまうのですから。  ひょっとすると、死に物狂いでついた嘘には、芝居人である我々が求めている究極の演技の形があるのかもしれません。(笑)

 芝居は虚構の世界であり、観客の前で嘘をついているようなものとも言えます。自分を医者と言ったり、殺人犯と言ったり、果ては「空気の妖精」などと言ったりするのですから。それが単なる嘘であると、お客さんにバレてしまって、芝居自体が成立しなくなってしまう。ですから、我々役者は、毎回、命がけで嘘をついているようなものなのです。
 「嘘」から「口」を取ると「虚」。そう、役者は「嘘」をつくのではなく、お客さんの「虚」を衝かなければいけないのです。イコール、それこそが「嘘のない芝居」なのかもしれません。

 日々、こんな訓練をしている役者がつく嘘は、さぞかしバレにくいだろうとお思いになるかもしれません。しかし、物事はそう簡単にはいかないもの。そう、実生活の嘘には十中八九「後ろめたさ」というファクターがあるからです。どんなに上手い役者でも、よほどの悪人でない限り、この「後ろめたさ」が災いして、完璧な嘘をつくことはできないでしょう。
 とある稽古の帰り道、つい飲んで遅くなってしまった一人の役者がおりました。まずいことに彼は家で待つ彼女に「今日は早く帰る」と言っていたのを、すっかり忘れていたのでした。

 「やけに遅かったわね。」
役者「(ギク)稽古でどうしても納得いかないところがあってね、公園で一人稽古をしてきたんだ。」
 「犬並みの嘘ね。また飲んできたんでしょ!」
役者「そ、そんなことあるわけないじゃないか・・。」 
 「こんなにお酒臭けりゃ、誰だって気づくわよ。」
役者「ハッ! ・・ご、ごめんなさい!」

 そう、嘘はバレるから良いのです。きっと・・・。

(2017年春 紅月劇団 石倉正英)

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木 霊

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ママに扮して魅惑のボイスを披露する某役者(ファウストより)

皆さんにとって心地よい声とはどんな声ですか?
   濁りのない澄んだ声? 温かみのある鼻にかかった声? はたまたセクシーなハスキーボイス? 人それぞれ「好きなタイプの声」があるかと思いますが、特段好きでないタイプの声の中にも、時として心地よい声というのがあるのではないでしょうか。
 では、もう一つ質問です。「自分の声が好き!」という方はいらっしゃいますか? 誰もいない? 一人も? そう、自分の声を録音したものを聞くことほど、嫌なものはないですよね。概して人は自分の声は好きではないもの。

うちの劇団に、その声のファンが多い役者がいるのですが、その彼ですら、うちに来た当初は「自分の声が嫌で嫌で」と言っていましたから、この法則は誰にでも当てはまるのではないかと思います。そう、どんなナルシストでも、自分の声だけは我慢がならないと思っているのではないでしょうか。

台詞劇にとって役者の声は命にも等しいもの。お客さんに届く大きな声を出せるように、心地よく聞いてもらえる声を出せるように、誰しも努力を惜しみませんが、一方で、大きいけどけっして心地よいとは言えない声を発する役者も少なくありません。この違いは一体なんでしょう?

これは、僕はひとえに「不自然さ」ではないかと思っています。どんな声でもその人が無理なく自然にのびのびと発している声は耳に心地よいもの。好きではないタイプの声の中にも、時として心地よい声があるのはこの理由によるのだと思います。もちろん、役やシーンによっては耳障りな声を求められることもありますが、まず、その人にとって一番自然な声とは何かを見つけること、そして、いつでもそれを出せるようにすることこそ、発声の第一歩であると僕は考えています。

自分の声を聞く機会といえば、もうひとつ、「こだま」がありますね。日本では「木の霊が真似して返す」と思われていたことから「木霊」と書きますが、西洋のそれはもう少し切ないお話が元になっているようです。

英語で木霊は「echo(エコー)」。その語源はギリシャ神話にまで遡ります。おしゃべり好きのニンフ(妖精)・エコーは浮気者の神・ゼウスの妻ヘラの怒りを買って、人の言うことを繰り返す以外、声を発せなくされてしまいます。恋した美男子ナルシスにも気持ちを伝えられず、ただ彼の言葉を繰り返すのみ。誤解を招いたエコーは悲しみのあまり消え失せて、最後には声だけになってしまうのです。

なんとも切ないお話ではありませんか。ああ、だから自分の声はなんとも嫌な感じに聞こえるのか・・・いえいえ、このかわいそうなエコーのためにも、皆さん、もう少し自分の声を愛してあげてください。ひょっとすると、それが素敵な声になる第一歩かもしれませんよ。

2017年初春 紅月劇団 石倉正英

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シェイクスピア!

このたび、おかげさまで20周年記念公演の第三弾「テンペスト」が盛況のうちに無事幕を閉じることができました。ご来場いただいたみなさん、応援いただいたみなさんに心より御礼申し上げます。

「テンペスト」はウィリアム・シェイクスピアの最晩年の作品で、日本では「あらし」と訳される傑作スペクタクルです。娘とともにたった二人、地中海の孤島に追いやられたミラノ公国の王・プロスペローが、たまたま島の近くを通りかかった敵どもを、魔法の力で嵐を起こし、復讐するも、最後には「許し」を与え全員と和解する、というお話。 世界では宗教や主義の違いに端を発した報復の連鎖が今現在も続いていると言えますが、すでに17世紀において、シェイクスピアは「許し」と「和解」こそが憎しみを終わらせる唯一の方法と説いています。

私としては久々、他の作家が書いた作品、それもかのシェイクスピア御大の作品を取り上げるということで、色々な発見や刺激がありました。 思い起こせば、当初は、某お寺の境内での野外公演を考えていたので、舞台は鎌倉、復讐劇ということで比企一族のエピソードを絡めて完全に書き直すつもりでいたのですが、色々な事情や偶然の導きにより、北鎌倉のツドイという屋内空間を舞台にすることになり、その空間のインスピレーションから、ふと、シェイクスピアの言葉をそのまま使ってみようという意識に変化していきました。

ということで、今回はシェイクスピアのセリフ一つ一つと実に真正面から向き合うことになったのですが、そういう目で見てみると、彼の脚本を書く上での苦労を目の当たりにした気がしました。この説明的なセリフを言わせるためにわざわざこんな聞き方をさせているのだな、とか、構成上の苦労などなど。実にホッとしたというか、いかにシェイクスピアといっても同じ悩みをかかえ、苦労して書いていたことが分かっただけでも、私にとっては大きな収穫。笑

それと普段「心情は言葉にしない、行間に押し込める」ということを肝に銘じている私にとってみると、心の中をそのまま発語する西洋演劇の典型的なセリフの数々は、鬱陶しいったらありゃしない! そこは日本の鎌倉で、それも我々紅月劇団がやるのだから、という強い意志の元、徹底的に重要な?セリフを削って行間に押し込めていくという作業は、何とも胸のすく作業でありました。

2016年秋 紅月劇団主宰 石倉正英

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MASKⅡ

Mask_2     ヌビアの仮面(石倉コレクション)

皆さんは、昨年、東京都庭園美術館で行われた「マスク展」をご覧になりましたか? フランスの国立ケ・ブランリ美術館所蔵のコレクション展で、特にアフリカの貴重な仮面がたくさん展示されていました。私なんぞは、ただもうひたすら「ハー」「ホー」「へー」「オー!」を繰り返すばかりの至福の時間でしたが、その個性豊かな芸術性あふれる造形や色遣いには、キリコやエルンストらの原点を見る思いがしました。
5つ書いたら一休み。S.6の「MASK」に引き続き、今回のテアトロ・カジュは仮面にまつわるエピソードを、またひとつご紹介したいと思います。

広大なアフリカ大陸には、その部族によって様々なテイストの仮面がありますが、その一つ、エジプトのナイル川上流、アスワン・ハイ・ダムあたりから南方一帯にヌビアという民族がいて、彼らの仮面もまた素晴らしいのです。

かつてエジプトを訪れた折、まさにアスワンの街を歩いているとヌビアの仮面ショップが! すかさず入ると店内に所狭しと並べられたヌビア面の数々。いやもう、どれにしようか、あれも欲しい、これも欲しい・・・が、その値段を聞くと飛び上がるほど高い。そう、エジプトは値段交渉無くして物が買えない国だということを思い出し、こちらの心の内を完全に見透かされた店主とのディスカウント交渉にうんざりしつつも、最も気に入った宇宙人を彷彿とさせる仮面を、そこそこの価格で購入したのでした(写真)。

そしてここ数日の宿となっていたナイル川に浮かぶ船に戻った時、事件は起こったのです。夕食に行く途中、仮面を手に入れてホクホクしていた私は、身も心もリラックスしたためか、はたまた昼間食べたモロヘイヤ・スープに当たったためか、やおら催し、トイレに駆け込みました。このトイレ、個室でありながら妙に広い。なんとも言えない落ち着かなさを感じつつ用を足していると・・・おもむろにドアが開き、ななななんと、白人のオバさんが入ってきたではありませんか! 二人とも目が合った瞬間「オー!」。しかしそのオバさんは、謝りもせず、不快そうな顔で舌打ちすると殊更激しくドアを閉めて出て行ったのでした。

「被害者は俺だ!」と、カチンときた私は自分の状況も顧みず、勇ましくこう言ってやりました。

「Knock the door!」(ノックしろ!)。するとそのオバさん、悪びれもせず、ドアの向こうからこう切り返したのです。

「Lock the door!」(ロックしろ!)。

「確かに・・・」、その鮮やかな切り返しに思わず頷いてしまった私が、その後、恥ずかしさのどん底へと突き落とされたのは言うまでもありません。

2016年夏 紅月劇団 石倉正英

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