川端康成
来月、5月17~18日に予定している我が紅月劇団春公演のテーマは文豪・川端康成です。
今年は文学者に焦点を当ててみようと思ったのですが、川端康成を取り上げたのには、いくつかの巡り合わせがあったからでありました。
今回の会場である鎌倉・長谷別邸からほど近いところに川端が晩年住んでいたこと、最後に自殺を遂げた逗子マリーナの近くに今僕が住んでいること、などなど。
と・・・取り上げてみたは良いものの、さて脚本を書く段になると、その作品数の膨大さ、多岐にわたる作風、ご本人自体が誠にとらえどころのないことなど、まー本当にいったいどこから手をつけて良いものやら・・・五里霧中、四苦八苦、試行錯誤を繰り返しやっとこさ脚本の完成にこぎつけたのでございます。
川端といえば日本初のノーベル文学賞をとった押しも押されぬ文学小説の大家。酷評する人は皆無と言って良いほど、世間の評価を受けた人。しかしその作品の登場人物は、女にも人生にもだらしのない男だったり、ストーカーのような変質者だったり、妄想狂だったりと、かなり異質なキャラクターが多く・・・脚本を書きながら様々な人に川端の印象を聞いてみたのですが、実に十人十色、大好きと言う人がいるかと思えば、気持ち悪い、彼は危ないと言う人もいる
川端の作品同様、さまざまな側面を持った人物と言えるのかもしれません。
今回脚本を書くにあたって久々に川端作品をあれこれ読み返してみたのですが、改めて読んでみると、川端のものを見る目というものが、いちいち凄まじいまでに微に入り細を穿ち、なおかつ表層を貫いて思い切り深い層まで、そのものの本質めいたところまで見通していることが如実に感じられました。
その人物の一瞬の表情を描写するのに、いったい何ページを費やすのだろう・・・いや、費やすという言葉は適当ではないですね。その表情を語るのにその字数を割いて余りある表現力、密度の高さ。凡庸な作家であればもてあましてしまうであろうその字数が、川端にとっても読者にとっても、決してくどくなく、必要十分であることの妙。
なおかつそれが、その本のメインストーリーとは一見全く関係がないものだったりする。それはあたかも、メインキャストだけでなく彼らを取り巻く世界全体を余すところなく描いているようです。
川端といえば有名なエピソードに、訪ねた女性編集者が泣き出してしまった、というのがあります。川端は黙ってじっと人の顔を見つめる癖があったのだとか。
その恐ろしいまでの視線が、人ばかりでなく世界全てにおいて同じ鋭さと貫通力を持っていたからこそ、このような名作が次々と生まれて行ったに違いありません。
高校時代に敬愛した古典の教師がこんな表現で僕らに文学の読み方を教えてくれたことがありました。曰く「俺は川端の雪国を十代の頃から何度も読んできたけど、歳をとるにつれて島村と駒子がヤッた回数が増えてくるんだ」と。
卑猥な話ですみません。なにしろ男子校だったものでして・・・笑
確かに今回ウン十年ぶりに「雪国」を読み返してみたら、「あ、ここでもHしてる!」と気づくこと多々。本物の文学を読み解くには読者の「経験年数」も大切ということでしょうか・・・も、もちろん、新たに気づいたのはHの回数ばかりではありません・・・。
カジュ通信 2025年春・初夏号 紅月劇団 石倉正英
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行間は踊る、されど進まず
上毛かるたの「よ」と「ら」
法隆寺の夢違観音

