石倉正英の「テアトロ・カジュ」(ISHIKURA)

十二夜

 これを書いている今、私の住んでいる鎌倉・材木座では光明寺というお寺の一大イベント「お十夜」の真っ最中です。「お十夜」とは、戦国時代に後土御門天皇より光明寺第九代・観譽上人に勅許された「十夜法要」のことで、三日三晩に渡って法要が行われるほか、稚児を交えた行列や夜店が出るなど、秋の材木座の風物詩となっています。何より毎年その入り口横に出る大判焼きがとても美味しい! 私のオススメはカスタード・クリーム。機会があったら是非食べてみてください。

この「お十夜」と時を同じくして、我が劇団のワークショップの発表公演が行われました。そして今回の題材は、奇しくも、シェイクスピアの「十二夜」だったのです。狙ったわけではないのですが、考えてみれば不思議なシンクロニシティでした。 「十二夜」とは、「東方の三博士」が生まれたばかりのイエス・キリストを発見した日、即ち、クリスマスから数えて12日目の夜のことで、キリスト教では「公現祭」という祝日となっています。クリスマス・リースも、この日まで飾られるのが習わしで、日本の「松の内」と、とてもよく似ています。ひょっとすると、キリスト教が信者を獲得するために取り込んだ、原始宗教の祝祭日とも何か関係があるのかもしれません。

今回の作品「十二夜」はシェイクスピアの傑作喜劇の一つで、その内容は、「双子の兄妹であるセバスチャンとヴァイオラが船の難破で離ればなれになり、イリリアに流れ着く。ヴァイオラは少年に変装するが、自分が仕えているオーシーノ公爵に恋をしてしまう。オーシーノは伯爵家の令嬢であるオリヴィアに恋をしているが、オリヴィアはヴァイオラを男だと思い込んで思いを寄せるようになってしまう。そこに兄セバスチャンが現れて・・・」と、話と恋がもつれにもつれまくるドタバタ劇。

面白いのは、劇中、「十二夜」に関する場面、話題がひとつも出てこないこと。内容とも全く無縁なのです。
ではなぜタイトルが「十二夜」なのか。これには諸説あって、いまだにはっきりとはしていません。最も有力なのは、初演が公現祭に行われたから、という説。だとしても初演の日からタイトルをつけるなんて、なんとも乱暴なネーミングではありませんか。とはいえ、私もタイトルを先に決めて提出しなければいけないことがままあるので、ひょっとするとシェイクスピアも「ああ、もう、とりあえず『十二夜』とでもしとけ!」てな感じでつけたのかもしれません。そんな作品が400年以上も上演され続けているのですから、芝居とは面白いものです。

それともう一つ興味深いのは、このお芝居のラストシーンです。 見事に絡まった恋が片付いて、物語は大団円を迎え、登場人物たちが全員退場すると、道化が一人、ポツンと残される。そこで一曲歌を歌うのですが、これがなんとも切ない歌なのです。「・・・さても悲しや嫁とれば、ヘイホー、風と雨、ホラは吹いても腹ペコで、毎日雨は降っていた・・・」。 道化の稼業、自分自身の存在の切なさを歌った歌で終わるのです。喜劇であるはずのこの作品のラストに配された、切実な、物悲しくすらある道化の歌・・・。
そして、乱暴なタイトルの喜劇を作り終えたシェイクスピアは、その後、「悲劇」の時代へと入っていくのでした。

(2017年秋 紅月劇団 石倉正英 )

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GHOST 〜K病院の怪~

今年はここ数年関わっている群馬は中之条ビエンナーレの開催年で、9/9〜10/9の一ヶ月間、国内外およそ150人のアーティストによる様々な展示やイベントが行われます。我々も、もはやホームグラウンドとなった旧養蚕農家・冨沢家住宅を舞台にした「GHOST」という作品を上演いたします(9/30〜10/1)。と、軽く宣伝させていただいたところで本題に入りましょう。今回のテアトロ・カジュは、納涼企画、新作の「GHOST」にちなんで、ひとつ怖いお話をしてみたいと思います。

  学生の頃、あるクラスメートが奇妙なバイトの話を持ってきました。巣鴨にあるK病院が建て替えになり、工事の間、夜間はお医者さんが不在になるので、一泊して、万一救急車がやってきたら、別の病院を紹介するだけという、ある意味おいしいバイトでした。これを友人数人でローテーションを組んで回そうというのです。若くトンガっていた僕らは、怖いからやめようなどという者はなく、即座に面白い、やろうやろう、ということになりました。先に任務に就いたやつらは、翌朝、口々に「余裕余裕」といい、そして、とうとう僕の番がやってきたのです。

  K病院は小さいながらも総合病院で、地上4階、地下2階のそこそこ大きなビルでした。工事中で真っ暗、誰もいない・・・そう、僕らの仕事は夜間の警備員も兼ねていたのです。

  執務室は1階の受付所。そこでTVを見ながら買ってきた弁当を食べ終えたその時でした。誰もいないはずの2階から、人のしゃべる声が聞こえてくるではありませんか! 勇気を振り絞って2階に上がっていくと、なんとラジカセからラジオが流れている! そう、僕らの寝床は2階の病室のベッドで、そこに仲間が目覚まし時計代わりにラジカセを持ち込んでいたのでした。この時、なぜか冷静だった僕は、ああ、前の当番のやつが目覚ましのラジオをかけ忘れたんだな、と納得、いや、言い聞かせてラジオを切り、下へと降りて行きました。

  執務室に戻ってホッとしたのも束の間、また2階から人の声が・・・。まだ辛うじて冷静を保っていた僕は「スヌーズだ、スヌーズ機能が動作したに違いない。ちゃんと電源を切らないと」と再び2階に上がり、今度はちゃんと電源を切って戻りました。

  しばらくの間、聞き耳を立てていましたが、音はせず、よしよし、やっぱりスヌーズだったと安心しきったその10分後・・・けたたましい大音量で音楽が鳴り始めたではありませんか! ドキー!! としつつも、しつこいスヌーズめ、と悪態をつきながら2階に上がるとカセットテープの重々しい再生ボタンが押されている・・安物のラジカセです、目覚まし機能でアナログな再生ボタンが押されるはずがありません。

「出たー!!」パニックになった僕は、外へ飛び出し電話ボックスから110番、さすがに幽霊が出たとは言えず、不審者らしき者が忍び込んだ模様と話して、警察官を派遣してもらうことになりました。到着した屈強な二人の警察官のなんと頼もしかったことか。一緒に全館回ってもらうと、誰もいない・・・。しかし、くだんの病室に行くと、中にあったものが全て廊下に出されていたのでした・・・。激しい幽霊もいたものです。  さて、この事件からちょうど1年後のこと・・・仲間内で飲んでいた時、この話を始めた僕を遮って、仲間の一人がこう言い出しました。「あれ、実は俺たちがやったんだ。お前があんまり冷静に対処するからついついエスカレートして・・・警察呼んだと聞いて、あわ食って今まで黙ってた。でも、もう時効だよな?(笑)」僕はいかりを通り越して、ただ笑うしかなかったのでした・・・。

(2017年夏 紅月劇団 石倉正英)

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嘘という名の演技

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花を愛でていると嘘をつき団子を狙う愚犬

 「人間は嘘をつく動物である」こんな格言を残した人は、歴史上いなかったと記憶していますが、人は多かれ少なかれ嘘をついて生きているように思えます。
 最近の学説では、犬も戦略的に嘘をついて人を騙す、とのこと。確かにうちの愚犬でさえ、怒られると分かっていることをしているのがバレた瞬間、「やってないよ」と嘘をつく風の行動をとる時があります。ミエミエなだけについ笑ってしまい、悔しいかな、彼の嘘はいつも成功を収めるのです。
 しかし、厳密に言えば、これは人のつく嘘とは質の異なるもの、つまり、主人に怒られないためには「そうする方が良い」という経験に基づく行動で、犬自体は嘘をついている感覚は無いような気もします。

 反面、「嘘をつく」というのは、芝居人にとっては面白い行動でもあります。何しろ、誰しもそこでは「演技」をしているのですから。リアリティのある演技をしないと、簡単に見破られてしまうのですから。  ひょっとすると、死に物狂いでついた嘘には、芝居人である我々が求めている究極の演技の形があるのかもしれません。(笑)

 芝居は虚構の世界であり、観客の前で嘘をついているようなものとも言えます。自分を医者と言ったり、殺人犯と言ったり、果ては「空気の妖精」などと言ったりするのですから。それが単なる嘘であると、お客さんにバレてしまって、芝居自体が成立しなくなってしまう。ですから、我々役者は、毎回、命がけで嘘をついているようなものなのです。
 「嘘」から「口」を取ると「虚」。そう、役者は「嘘」をつくのではなく、お客さんの「虚」を衝かなければいけないのです。イコール、それこそが「嘘のない芝居」なのかもしれません。

 日々、こんな訓練をしている役者がつく嘘は、さぞかしバレにくいだろうとお思いになるかもしれません。しかし、物事はそう簡単にはいかないもの。そう、実生活の嘘には十中八九「後ろめたさ」というファクターがあるからです。どんなに上手い役者でも、よほどの悪人でない限り、この「後ろめたさ」が災いして、完璧な嘘をつくことはできないでしょう。
 とある稽古の帰り道、つい飲んで遅くなってしまった一人の役者がおりました。まずいことに彼は家で待つ彼女に「今日は早く帰る」と言っていたのを、すっかり忘れていたのでした。

 「やけに遅かったわね。」
役者「(ギク)稽古でどうしても納得いかないところがあってね、公園で一人稽古をしてきたんだ。」
 「犬並みの嘘ね。また飲んできたんでしょ!」
役者「そ、そんなことあるわけないじゃないか・・。」 
 「こんなにお酒臭けりゃ、誰だって気づくわよ。」
役者「ハッ! ・・ご、ごめんなさい!」

 そう、嘘はバレるから良いのです。きっと・・・。

(2017年春 紅月劇団 石倉正英)

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木 霊

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ママに扮して魅惑のボイスを披露する某役者(ファウストより)

皆さんにとって心地よい声とはどんな声ですか?
   濁りのない澄んだ声? 温かみのある鼻にかかった声? はたまたセクシーなハスキーボイス? 人それぞれ「好きなタイプの声」があるかと思いますが、特段好きでないタイプの声の中にも、時として心地よい声というのがあるのではないでしょうか。
 では、もう一つ質問です。「自分の声が好き!」という方はいらっしゃいますか? 誰もいない? 一人も? そう、自分の声を録音したものを聞くことほど、嫌なものはないですよね。概して人は自分の声は好きではないもの。

うちの劇団に、その声のファンが多い役者がいるのですが、その彼ですら、うちに来た当初は「自分の声が嫌で嫌で」と言っていましたから、この法則は誰にでも当てはまるのではないかと思います。そう、どんなナルシストでも、自分の声だけは我慢がならないと思っているのではないでしょうか。

台詞劇にとって役者の声は命にも等しいもの。お客さんに届く大きな声を出せるように、心地よく聞いてもらえる声を出せるように、誰しも努力を惜しみませんが、一方で、大きいけどけっして心地よいとは言えない声を発する役者も少なくありません。この違いは一体なんでしょう?

これは、僕はひとえに「不自然さ」ではないかと思っています。どんな声でもその人が無理なく自然にのびのびと発している声は耳に心地よいもの。好きではないタイプの声の中にも、時として心地よい声があるのはこの理由によるのだと思います。もちろん、役やシーンによっては耳障りな声を求められることもありますが、まず、その人にとって一番自然な声とは何かを見つけること、そして、いつでもそれを出せるようにすることこそ、発声の第一歩であると僕は考えています。

自分の声を聞く機会といえば、もうひとつ、「こだま」がありますね。日本では「木の霊が真似して返す」と思われていたことから「木霊」と書きますが、西洋のそれはもう少し切ないお話が元になっているようです。

英語で木霊は「echo(エコー)」。その語源はギリシャ神話にまで遡ります。おしゃべり好きのニンフ(妖精)・エコーは浮気者の神・ゼウスの妻ヘラの怒りを買って、人の言うことを繰り返す以外、声を発せなくされてしまいます。恋した美男子ナルシスにも気持ちを伝えられず、ただ彼の言葉を繰り返すのみ。誤解を招いたエコーは悲しみのあまり消え失せて、最後には声だけになってしまうのです。

なんとも切ないお話ではありませんか。ああ、だから自分の声はなんとも嫌な感じに聞こえるのか・・・いえいえ、このかわいそうなエコーのためにも、皆さん、もう少し自分の声を愛してあげてください。ひょっとすると、それが素敵な声になる第一歩かもしれませんよ。

2017年初春 紅月劇団 石倉正英

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シェイクスピア!

このたび、おかげさまで20周年記念公演の第三弾「テンペスト」が盛況のうちに無事幕を閉じることができました。ご来場いただいたみなさん、応援いただいたみなさんに心より御礼申し上げます。

「テンペスト」はウィリアム・シェイクスピアの最晩年の作品で、日本では「あらし」と訳される傑作スペクタクルです。娘とともにたった二人、地中海の孤島に追いやられたミラノ公国の王・プロスペローが、たまたま島の近くを通りかかった敵どもを、魔法の力で嵐を起こし、復讐するも、最後には「許し」を与え全員と和解する、というお話。 世界では宗教や主義の違いに端を発した報復の連鎖が今現在も続いていると言えますが、すでに17世紀において、シェイクスピアは「許し」と「和解」こそが憎しみを終わらせる唯一の方法と説いています。

私としては久々、他の作家が書いた作品、それもかのシェイクスピア御大の作品を取り上げるということで、色々な発見や刺激がありました。 思い起こせば、当初は、某お寺の境内での野外公演を考えていたので、舞台は鎌倉、復讐劇ということで比企一族のエピソードを絡めて完全に書き直すつもりでいたのですが、色々な事情や偶然の導きにより、北鎌倉のツドイという屋内空間を舞台にすることになり、その空間のインスピレーションから、ふと、シェイクスピアの言葉をそのまま使ってみようという意識に変化していきました。

ということで、今回はシェイクスピアのセリフ一つ一つと実に真正面から向き合うことになったのですが、そういう目で見てみると、彼の脚本を書く上での苦労を目の当たりにした気がしました。この説明的なセリフを言わせるためにわざわざこんな聞き方をさせているのだな、とか、構成上の苦労などなど。実にホッとしたというか、いかにシェイクスピアといっても同じ悩みをかかえ、苦労して書いていたことが分かっただけでも、私にとっては大きな収穫。笑

それと普段「心情は言葉にしない、行間に押し込める」ということを肝に銘じている私にとってみると、心の中をそのまま発語する西洋演劇の典型的なセリフの数々は、鬱陶しいったらありゃしない! そこは日本の鎌倉で、それも我々紅月劇団がやるのだから、という強い意志の元、徹底的に重要な?セリフを削って行間に押し込めていくという作業は、何とも胸のすく作業でありました。

2016年秋 紅月劇団主宰 石倉正英

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MASKⅡ

Mask_2     ヌビアの仮面(石倉コレクション)

皆さんは、昨年、東京都庭園美術館で行われた「マスク展」をご覧になりましたか? フランスの国立ケ・ブランリ美術館所蔵のコレクション展で、特にアフリカの貴重な仮面がたくさん展示されていました。私なんぞは、ただもうひたすら「ハー」「ホー」「へー」「オー!」を繰り返すばかりの至福の時間でしたが、その個性豊かな芸術性あふれる造形や色遣いには、キリコやエルンストらの原点を見る思いがしました。
5つ書いたら一休み。S.6の「MASK」に引き続き、今回のテアトロ・カジュは仮面にまつわるエピソードを、またひとつご紹介したいと思います。

広大なアフリカ大陸には、その部族によって様々なテイストの仮面がありますが、その一つ、エジプトのナイル川上流、アスワン・ハイ・ダムあたりから南方一帯にヌビアという民族がいて、彼らの仮面もまた素晴らしいのです。

かつてエジプトを訪れた折、まさにアスワンの街を歩いているとヌビアの仮面ショップが! すかさず入ると店内に所狭しと並べられたヌビア面の数々。いやもう、どれにしようか、あれも欲しい、これも欲しい・・・が、その値段を聞くと飛び上がるほど高い。そう、エジプトは値段交渉無くして物が買えない国だということを思い出し、こちらの心の内を完全に見透かされた店主とのディスカウント交渉にうんざりしつつも、最も気に入った宇宙人を彷彿とさせる仮面を、そこそこの価格で購入したのでした(写真)。

そしてここ数日の宿となっていたナイル川に浮かぶ船に戻った時、事件は起こったのです。夕食に行く途中、仮面を手に入れてホクホクしていた私は、身も心もリラックスしたためか、はたまた昼間食べたモロヘイヤ・スープに当たったためか、やおら催し、トイレに駆け込みました。このトイレ、個室でありながら妙に広い。なんとも言えない落ち着かなさを感じつつ用を足していると・・・おもむろにドアが開き、ななななんと、白人のオバさんが入ってきたではありませんか! 二人とも目が合った瞬間「オー!」。しかしそのオバさんは、謝りもせず、不快そうな顔で舌打ちすると殊更激しくドアを閉めて出て行ったのでした。

「被害者は俺だ!」と、カチンときた私は自分の状況も顧みず、勇ましくこう言ってやりました。

「Knock the door!」(ノックしろ!)。するとそのオバさん、悪びれもせず、ドアの向こうからこう切り返したのです。

「Lock the door!」(ロックしろ!)。

「確かに・・・」、その鮮やかな切り返しに思わず頷いてしまった私が、その後、恥ずかしさのどん底へと突き落とされたのは言うまでもありません。

2016年夏 紅月劇団 石倉正英

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デビッド・ボウイ追悼

〜あるいは、芝居と音楽のやんごとなき関係〜

芝居にとって音楽とは、空気感や雰囲気を与えるものであり、間を作るものであり、切るものでもあり、インスピレーションを与えるもの。芝居にとってそれはとても重要な構成要素の一つです。それゆえ、良い音楽との出会い、良いミュージシャンとの出会いは、良い芝居を作るための必要不可欠なことと言えましょう。

僕の場合、芝居を始めたばかりの頃は、既製の音楽の中から芝居にあったものを探してつけておりました。その後、才能あるギタリストと出会って、芝居のイメージに合う音楽を、キーボードやギター、Macなどを駆使して作ってもらい、それをCDに録音して当てる、という時代を迎えました。いわばレディメードからオーダーメードにグレードアップして、よりこだわりのある芝居に進化したように思ったものです。何より、音楽の著作権から解放されたのが嬉しかった!笑

しかし、ここでひとつの大きな問題に直面することになります。「尺(=長さ)」という問題です。そう、芝居は生ものですから、その日、その時、役者や観客の状況によって常に長さが変動します。もちろん、一分一秒単位できっちり「尺」を決めた演出もありますが、逆に都度伸縮してしかるべきと捉えている僕の芝居では、それは避けようのないジレンマだったのです。綿密な打ち合わせで決まったはずの「尺」を守って正確に打ち込まれた音楽は、その時の「なり」で伸縮してはくれず、早く終わってしまったり、逆にえらく余ったり、仕方なく長めに作っといてフェードアウトさせるか、という妥協案に落ち着くしかなくなってしまうのです。そして必然的な結果として、生で色々な楽器を操ってくれるミュージシャンと一緒にやることに落ち着いたというわけです。

もうひとつ、古楽器との出会いも僕にとっては大きなターニングポイントでした。電子的な音楽や、アンプやスピーカーを経て聞こえてくる音楽に合わせる絵も言われぬ違和感、それはそれで面白くもありましたが、古楽器から出てくるプリミティブな音色は、まさに木の音であり、風の音であり、人や動物の息の音でありました。人の声と調和する自然の音。この音に出会ってしまったが最後、最早これ以外ない!と思ってしまったのです。

音楽といえば・・・、大学2年の時、初めて脚本を書き演出した作品のテーマ曲として選んだのがデビッド・ボウイの「ヒーローズ」という曲でした。その彼が、ご存知の通り今年の1月10日に亡くなりました。いわば僕の芝居はデビッド・ボウイの音楽で幕を開け、彼が亡くなった年に劇団創立20周年を迎えた格好となります。なんとも不思議な縁を感じますし、実際、彼の音楽やパフォーマンスに、僕自身、とても大きな影響を受けてきました。常に変わり続け、世界を刺激し続けてきた彼の作品や生き様をお手本に、これからも芝居と音楽の良き有り様を探求し続けたい。

晩年の傑作「The Next Day」を聞きながら、今、そんなことを考えています。

2016年春 紅月劇団 石倉正英

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セリフの覚え方

「よくあんなにセリフが覚えられるものですね」と言われることがしばしばあります。 確かにモノローグの長ゼリフとなると、A4 サイズにして2枚に渡ることもあり、やったことのない人からすれば、特殊能力に思えるのかもしれませんね。でもこれだけは確実に言えますが、誰でも覚えられるものなんです! え?嘘だろうですって? フフフ。
記念すべき第10回目のテアトロ・カジュは、このセリフ覚えの秘密について紐解いてみたいと思います。 

と言っても、役者が皆すんなり覚えられるわけではなく、うちの劇団にも、毎回七転八 倒の苦しみと共にやっとこさセリフを覚える役者もいます。しかし、僕の場合はというと、 自慢じゃありませんが、セリフを覚えるのにあまり苦労をしたことがありません。といっても、昔から暗記は不得手ですし、覚えるコツがあるわけでもないのですが、強いて言え ば、「セリフを覚える」という感覚ではなく、「結果的に覚えてる」という感覚に近いように思えます。

セリフの覚え方には概ね2タイプあるように思えます。一つは文字通り「一字一句暗記 する」タイプ、もう一つは「結果的に覚えているタイプ」。どちらが良いというのはありませんが、どちらも良い面と悪い面があることは事実。僕の場合は明らかに後者で、何度か稽古で合わせていくと自然とセリフが身についてくるので「覚える」苦労はあまりない のですが、反面、流れのない、支離滅裂なセリフなどは甚だ不得意です。
一方、暗記する タイプは、セリフを入れるのには苦労しますが、台本に忠実で、支離滅裂なやりとりも難なくこなす。いわば台本を理論的に捉えるか、記号的絵画的に捉えるかの違いかもしれません。どちらにせよ、最終的に「自分の言葉」にすることが大切なので、アプローチの仕方は好き好きで良いのですが。

一方、我々役者にとっては「忘れる能力」というのも結構大切です。たとえば、本番中にセリフを間違えてしまった。この「間違えた」ことをいつまでも覚えているとろくなことになりません。「次のシーンのセリフ、ちゃんと出てくるだろうか」という疑心暗鬼は、 必ずやさらなるセリフの間違えを誘発します。こんな時になすべきことはただ一つ、早々 と「忘れる」ことです。

とかく人は記憶していることを良しとしがちですが、この忘れる能力というのも、案外、 人間社会において有効な力のような気がします。自分の失敗を早いとこ忘れたいように、 他人の失敗も早いとこ忘れてあげることで、世の中は実に円滑に回っていく。そう、この 忘却力こそが、世界を救う唯一の方法・・・というのは少々言い過ぎでしょうか(笑)。

痛々しい自画像が印象深いメキシコの女性画家フリーダ・カーロの生涯を描いた映画の中、結婚を決めた彼女と父親との間で、こんな素敵な会話が交わされるシーンがあります。 「パパ、結婚生活を長く幸せに続ける秘訣は?」「ショート・メモリー」

紅月劇団 石倉正英 (2016年新春号)

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スローモーション

「超ゆっくり歩いてみてください」と言われると、人は途端にヨロヨロとぎこちなくなってしまうもの。あれ? 普段どうやって歩いてたっけ? と、頭で考え出したらもう最後です。この漢字、これで良かったっけ? と悩むのに似たループに果てしもなく陥ってしまいます。歩く動作だけでなく、普段無意識にしている動作をゆっくりやるのはとても難しいものです。試しに、超ゆっくり指折り5つ数えてみてください。ね、手がプルプル震えてくるでしょう?

今回のテアトロ・カジュは、この「ゆっくりした動き」すなわち「スローモーション」にスポットを 当ててみたいと思います。

普通のスピードの動きでも、舞台の上で普段通りにやろうとすると、なぜかぎこちなくなってしまうのが人情です。無意識に振舞っている動作に意識が介在することで、動作をぎこちなくさせてしまうのです。では、舞台上でも無意識に振る舞えばいいじゃないか、というと、事はそう単純ではありません。ある程度決められた動作をする必要がある上に、お客さんからの見られようも意識する必要があるからです。ではどうやってそれを克服するか・・。それにもっとも役立つのがスローモーションのトレーニングだと僕は考えています。ゆっくりした動きを繰り返しトレーニングする事で、ある程度意識が介在してもスムーズに動けるようになり、やがては適度に意識を抜いていく事ができるようになってくる。子供の頃、見よう見真似で習得した人間的動作というものを、もう一度学び直すような作業ですね。

僕のバイブルといっても良い「弓と禅」という本があります。ドイツの哲学者、オイゲン・ヘリゲルが弓道を習い、最後は五段の免状をもらうまでになる一部始終を記録したものですが、西洋人の合理的な視点で日本の武道という非合理的なものを見つめる、それが故にとても分かりやすく、面白く、そして日本人師範の教えの言葉がいちいち胸に突き刺さってくるという名著です。

その中で、必死に弦を引こうと頑張っているヘリゲルに師範がこんな事を言う場面があります。
「腕の筋肉を使って引くのではなく、腕の筋肉は引く手を見ているようにしなさい」と。なんとも不可解な言葉ですが、この言葉がふっと腑に落ちたのは、まさに最近やった舞台の本番でのことでした。土下座したところで皆が去り、その行く手を見ながらゆっくり上体を起こす、まさにその時、意識は完全に去りゆく人物にありながら、必要最低限の筋肉に上体を起こす動作を全て任せられた気がしたのです。僕にとってそれはまさに、余計な力を使わずに弓の弦を引けるようになる瞬間に似たパラダイム・シフトでありました。心に無限の自由が与えられたと言ったら大げさですが、これもひとえにスローモーション・トレーニングの賜物と、一人頷いていたのでした。

紅月劇団 石倉正英 (2015年秋・冬号)

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(「真田の城」より Photo by 折笠安彦)

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小道具

岩や建物など舞台セットとなるようなものを大道具、役者が手に持ったり、動かしたりするものを小道具と言います。例えば、刑事が舞台上でタバコを吸う、この場合のタバコは小道具であり、当然のことながらタバコを吸うシーンだから使われているわけですが、そのシーンの位置づけや登場人物の心情に目を向けると、タバコは単なるタバコという存在を超越し、様々な意味やイメージを持ってくる・・。皆さんも、映画や舞台を見ていて、時折そんな風に感じられることがあるのではないでしょうか? 今回のテアトロ・カジュは、単なる「モノ」にとどまらない小道具の奥深さに触れてみたいと思います。

自分の作品を作り始めて間もない頃、女性が小刀で自らを刺して死ぬシーンがありました。そこで僕は役者が怪我をしないように、東急ハンズで、刺すと刃が引っ込むジョーク・ナイフを買ってきて使ったのですが、本番を終え、お客さんのアンケートを読んでみると、それがジョーク・ナイフだということがバレバレだったのでした・・。僕は、その時卒然と、どんなに小さなものでも、舞台上に出て来る何一つとして、おろそかにはできないのだということを痛感したのでありました。

そう、小道具は舞台に上がった瞬間に様々な意味を持ってくる。いわば、象徴物となるのです。死の直前にその女性にじっと見られた小刀は、その女性の生から死に向かう「思い」の表徴となるはずで、ひょっとするとそこにはその女性の人生の全てが乗ってくるのかもしれない・・。

チェコにオブジェクト・シアターという演劇のジャンルがあって、これは芝居の進行とともに一つの「モノ」を横にしたり、ひっくり返したりして、様々な形、意味に変化させていくお芝居。そこでは、小道具の象徴性が存分に発揮されていて面白いのですが、今から10年ほど前に、長年オブジェクト・シアターを牽引してきた舞台美術家・ペテル・マターセクさんのワークショップを受ける機会を得ました。これが実に発見と気づきの連続だったのですが、最後の最後、とても面白い課題が与えられました。なんと「新聞紙で水を表現しなさい」というのです。参加メンバーからは「新聞を燃やし、その灰を雨のように降らせるとそこから植物の芽が出てくる」など、興味深いアイデアがたくさん出されました。単にリアリティのある小道具を使えばいいというのではなく、イメージ一つで小道具はいかようにも面白く化けていくということを教えられたのでした。

さて、その後再び、小刀で人が死ぬというシーンを作る局面が訪れました。少しグレードアップした僕がジョーク・ナイフの代わりに用いたのは・・厳選した短い竹の棒。幸いにして、賢明なお客さんはそこに色々なイメージを重ねて観てくれたようでした。

紅月劇団 石倉正英 (2015年初夏号)

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竹筒作戦!」その後ギャグシーンに転用された竹の小刀
(「新田義貞の稲村ガ崎越え!」より Photo by Sekino Naoko)

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