その場所は・・・。
22才だった私には、まだ扉が開いたばかりの大人の世界の、頭で描いていたあこがれの世界の、シンボルのようなところでした。
6坪程度のその空間は、真鍮色とクリーム色と焦げ茶に統一されていて、バーカウンターの向こうには、夜でもレイバンのサングラスの大男がむっつり立っているだけで、壁のレザボア・ドッグスのポスターとカウンター下のキネマ旬報以外余計なものはほとんどありません。
恐る恐るカウンターに座ったときのことを、今でも昨日のことのように思い出します。
お酒の種類や飲み方、そうした場での会話を授業料をはらって学んだ場所です。
「彼」は、客に媚びず、えらそうにせず、多弁にならず、飽きさせず、過剰なサービスはなく、でも親切で、常連たちと野球チームをつくるぐらい気さくなのに、親しくなっても、客がカウンターの内側に踏み込むことは許さず、ただ淡々と「いいお酒」を提供する、ヲトナの男でした。
もうとっくに、当時の「彼」の年齢を超えた自分を省みるに、なんか、あのヲトナ空気が自分には全然ないことに愕然としてしまいます。
目いっぱい背伸びしていた小娘は、
トム・コリンズとジントニックのちがいも、生のグレープフルーツでつくるソルティ・ドッグがあんなに美味しいことも、タンカレーとゴードンがどうちがうかも、ラムはマイヤーズが香りがいいことも、みんなここで覚えました。
もともと役者さんで、映画畑だった「彼」に、監督別で映画をみることや、ヌーベルバーグがなんなのかとか、ハリウッド以外の映画の魅力とか、日本映画の裏事情とかも、ここで教わりました。
お客さんのいないときは、いつも本を読んでいた「彼」には、エンターテイメント小説の読み方も教えてもらいました。「この小説を映画にするなら・・・」と、いっしょに監督を選んだり、キャスティングを考えたりするのが、そのうち、私との主な会話の内容になりました。
今でも、当時、今までのアメリカの探偵小説の型を破ったといわれるロバート・B・パーカーの「スペンサー」シリーズは、私の宝物です。
生後4ヶ月の息子を連れて離婚したときも、「聞いたよ、たいへんだったね。」とだけいって、いつもと変わらぬ態度でした。
カジュの建物に縁をもらって、無収入だったのに「借ります」といってしまって、困っていた私(バカか、おまえは!)。
いっしょにシェアして使ってくれる人を探し始めたとき、お店のお客さんにそのことをことあるごとに話してくれて、その結果、常連だったH氏 に話がつながりました。
それがきっかけで、傷んでいたカジュの建物が、格安で改造・修理ができ、彼の奥さんがピアノ教室をしてくれることになり、現在のカジュ・アート・スペースの最初の核ができました。
最初の出会いから15年以上、前ほど足しげくは通えなくなりましたが、ずっと、私のこころの隅に息づく、大切な場所であり続けました。
3年前に、「彼」は、過労が原因で店で倒れました。
もともと鍛えていた人でしたので、半年以上のリハビリの末、奇跡的な回復をなすも、店は閉めることになったのです。
それからほどなくして、居ぬきで別の人が借りたと聞きました。
たいそう評判のいいお店で、誰に聞いても悪く言う人はいません。それがなによりの救いでした。
しかし、あまりにかわっていたら・・・という気持ちが先にたって、どうしても、足を運ぶ気になれなかった。
でもせまい鎌倉のこと、先立ての鎌倉路地フェスタの折に、ついに、そのお店と直接の縁ができました。
マスターも、働いている女性もたいへんナイス。お店のスピリットにも共感できます。
今年の路地フェスタでは、拠点のひとつになってくれて、 今回のトラーベ・アート・フェスティバルでは、協賛になってくれました。
10月27日には映画とライブの企画持ち込んでくれて、今から楽しみです。
この夏のとある夕方、その店に、はじめてビールを飲みに行きました。
今のマスターの心意気が反映されながらも、 店のしつらえはほとんど変わっていませんでした。
やっと来てくれたと喜んでくれたマスターが、サービスで、美味しいおつまみを出してくれました。
「彼」に礎を築いてもらったカジュの10周年に、縁は大きな輪を描いて、私に戻ってきました。
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