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2008/02/02

2008/02/02

「Che,Che,(ねえ,ねえ,君,)」

Guevara22


明治44年(1911年)、梶山亥之助は九州に生を受ける。

旧制中学生の頃から芸者をあげて遊ぶような剛胆ぶり。けんかっ早くて義に厚い、九州男児の本懐のような少年であった。

歩くより泳ぎを覚えたのが早かったという逸話があるほどの根っからの海の男。それが嵩じてか、のちに東京の水産大学に進み、生涯漁業にまつわる様々なプロジェクトに身を投じることとなる。

戦後間もなく、政府は漁業の拡張計画を推進。北洋漁業の重要性をにらんで、捕鯨を含む北洋漁獲の19隻の船団の、ロシア沖への派遣を決定。
亥之助はそのうちの4隻をまかされ、仲間とそのための会社を設立。
まさにロシア海域に臨もうとする前夜、ソ連から「この計画はポツダム宣言の条項に触れる」と言う名目で横やりが入り、なんと、計画は一夜にして中止。亥之助は当時で1億円の借金を背負うこととなる。

遂行されていれば、日本の貧しい漁村にも大きな変革をもたらせるプロジェクトだっただけに、亥之助の喪失感は大きかった。

失意の日々を送っていたある日、仲間のひとりが新しい仕事を持ちかける。
それは、キューバ海域の豊かな水産資源、とくに伊勢エビに目をつけたプロジェクトで、日本はもちろん、海域の南米諸国にも大きな経済効果をもたらす計画だった。

昭和30年(1955年)、亥之助はキューバに入国し、以後4年に渡って日本とキューバを往復する日々を送ることとなる。

その2年前、若き弁護士フィデル・カストロは、事実上アメリカの傀儡でキューバの国益よりアメリカの利益の優先していたバチスト政権を打倒すべく蜂起するが失敗し、メキシコに逃れていた。そして、亥之助の入国の翌年、機が熟したとみて、革命の同士80余名と船で帰国する。

ところが、この情報は事前に政府に漏洩しており、激しい政府軍の猛攻(虐殺)を受けることとなる。カストロの一団で生き残ったのはわずか18名。しかし、前回の蜂起とは違い、時代はカストロに味方していた。残った18名の精鋭とともにマエストラ山脈に逃れたカストロは、各地の反バチスト派の結束に努め、「革命はいよいよ」の機運は国内に満ちていった。

亥之助のプロジェクトは、はじめはバチスト政権下で動き出した。だが国内の空気ははっきりとバチスト政権の終焉を予感させており、プロジェクトの継続には次の権力者とのコネクションが重要になることは亥之助にも予測できた。当時のカストロ派は、革命こそ目指してはいたが、はじめから共産主義国家の建設を目論んでいた訳ではなかった。
亥之助はバチスト政権ではなく、カストロ派に会見を試みる。

亥之助は、生来の剛胆な性格と人の心を引きつける才能、ノリで覚えたスペイン語を駆使して現地に次々と友人を増やしていた。そのつながりがカストロに届くのにあまり時間はかからなかった。
革命後の、アメリカ資本から脱却した国の産業のあり方を模索していたカストロは、亥之助の提案する伊勢エビ漁に関する提案に関心を示し、ついに会見は実現する。

通された部屋にいたのは、カストロではなかった。
30になるかならないかの、その物腰のおだやかな青年は、アルゼンチン人だという。「メキシコでカストロに出会い、意気投合してここまで来たんだ。」
もともとは医者で、根っからの軍人ではないといい、よく話し、よく吸い、よく笑った。(亥之助がその後日本で長くハバナ葉巻を愛煙していたのはこのときがきっかけらしい)

亥之助の提案は好意をもって受け入れられ、必要な援助は受けられるよう約束された。

しかし、1959年ついに革命が成功すると国内は予想以上の混乱となり、それまでアメリカ・ドルに支えられていたキューバの貨幣価値は革命後暴落。日本の家族への十分な送金ができなくなった亥之助の生活は困窮し、帰国の目処さえ立たなくなってしまう。
しかしこれ以上キューバにとどまることは無理と判断した亥之助は、決死の脱出劇でグァテマラに逃れる。

亥之助はあらゆる手を試みるがついに再入国は果たせず、キューバにおける亥之助のプロジェクトは、またしても不運にみまわれ、当初期待した結果を得ることはできなかった。(だが、建てた缶詰工場と漁業施設はその後も長くキューバに残ったという。)

カストロは当初、国家の再建に際し、社会主義を理念としながらも、アメリカにアプローチを試みていた。しかしこれは失敗に終わり、結局1961年、ソ連に歩み寄る形で南米で初の共産主義国家を樹立する。
このことが、日本に帰国してからの亥之助にも影を落とし、共産主義者と疑われた亥之助には、それから数年尾行がつくようになった。

その後、南米の事情に明るいことが買われ、国連食糧農業機関(FAO)の派遣でチリに赴き、サケ・マス漁と養殖の仕事に従事し、チリの漁業の発展に貢献した。
昨今、日本のマーケットにチリ産のサケ・マスが多く見られるのは、このときの仕事の成果である。

1967年10月、亥之助は、キューバで会見したあのアルゼンチン青年がボリビアで殺害されたことを新聞で知る。
スペイン語と原住民の言葉が融合したアルゼンチン独特の言い回しで「ねえ、君」を意味する"Che"がそのまま愛称となり、没後40周年の今でも南米で絶大な人気を誇るその人物こそ、
エルネスト・"チェ"・ゲバラ、その人である。

そこからさかのぼること2年、同じ月に、亥之助の長女・陽子は、夫の赴任先のロサンゼルスで女の子を出産する。

それがこのアタシ。

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