Shape of Love
「愛とは」というテーマは、人類が"ものごころついた"時からの長いテーマですが、昨今チマタにはびこるこの「愛」という言葉、便利でトレンディーな輸入品、という感じに見えるのは私だけでしょうか。
キリスト教が日本にはじめて入ってきたとき、聖書の日本語訳で宣教師たちがとても困ったのがこの"love"だったと聞きます。
日本語にはこれに当たる適切な言葉が当時はなかったらしいのです。「愛染明王」ではお馴染みの「愛」の字も、室町時代では、色恋のニュアンスが強く、結局「ご大切」という言葉を当てたのだそうです。
このごろ、この「愛」という概念が、もしかしたら私にはないのかもしれないと、自分でおののいています。
さきほどラジオのニュースで聞いたところでは、児童虐待の件数が、また増えたということで、その結果死にいたった子どもが37人報告されているそうです。
では、虐待をおこなう親や先生は、冷酷無比な鬼なのかというと、どうも違うような・・・。
要は、「愛」の概念がゆがんでいる、「愛」のはき違えで起こっている悲劇のように思えるのです。
子どもへの折檻がとまらない親は、自分が受けてきた「愛」に問題がある場合が多いといいます。
「情」はある。「恋慕」もある。「忠義」や「仁」も間違いなくある。しかし、そもそも果たして、私たち日本人は「愛」という概念があるでしょうか。
自分をかんがみるに、たしかに厚い情けに包まれた実感はあるのですが、父や母が、私を「理解」することは、ついぞありませんでした。で、おそらく、ほとんどの日本の親子はそうなのではないかと思います。(少なくとも、私より上の世代は)
父は子どものために、孫のためにとお金の心配や家の心配をそれはそれは親切にしてくれます。しかし、私は父にとって、出来損ないの、女としてはまったく失格の、「かたわ」なのです。私が大切にしているものは、どれもゴミ同然、わたしが大事にしている人たちのことも「所詮他人だろう」でおしまい。 それを大ぴらに言って憚らない。おいおい。
そんな私をを哀れんでしてくれるすべてのことは、私には痛い。
そこに、自分の「愛」への欠落した心が見えてなんとも自分が情けない。
お父さん、私はね、この12年が人生で一番しあわせなのですよ。一番自分らしく、人にそれなりに必要とされて、楽しく生きているのですよ。そのことを、ちょっとでいいから、喜んでもらえないでしょうか。それが私には「愛」なんです。
世の中で、子どもを一番愛しているのは親だといいます。これは間違いないでしょう。虐待している親でもそれはそうだと思います。
でも、同時に、その人間を立ち上がれないほど傷つけるのも、ほかでもない肉親なのです。「愛」の名の下に。
そして、肉親によってついた傷は、付き合い方がわかるようになるだけで、癒えることはありません。
「愛」の正体は、不惑を過ぎた昨今、ますます遠のいてゆきます。
理解のない愛は愛ではなく、「情け」。深い情けは、正負どちらのエネルギーも内包しています。
でも、人はそれぞれのやり方で、愛していくしかありませんね。息子がわたしの「愛」によってキズを負わないことを願うばかり。
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コメント
チェゲバラとお父様のこと読んだ時
「あっ、うちのダンナだ、何かを成し遂げるために
一番大事な家族(との時間)を犠牲にしてる・・・・・」
と思いました。
今回は、
「あっ、これおんなじだ・・・私と、私の母と・・」とおもって、初めてブログにコメントを書きます。
『その人間を立ち上がれないほど傷つけるのも、ほかでもない肉親なのです。「愛」の名の下に。』というくだり
→先日、母に「いつまでの自分の価値観を押し付けて
絶対自分が正しいと思わず、老いては、子に従う(受け入れる)があってもいいんじゃないか。子供は他人にはわからない親の欠点や偽りを知っている、大人になった子供からのアドバイスや価値観を受け入れることができればもっと幸せになれるのでは・・」と、言ってしまった。
親子ってむずかしい、「愛」がアルからなおさら。
『息子がわたしの「愛」によってキズを負わないことを願うばかり。』→同感です。
投稿: あるばれすまちこ | 2008/02/22 12:08
あああ。ぐさぐさ。
人からの愛については、あきらめる。求めない。特定の肉親に対しては特にそうで、その人もやはり愛についてわからないから,仕方ないんですね。さわりかたもわかりましぇん。
でもね、よくしたのもので、そのぶん肉親以外から、たっくさん愛をもらっているように思います。友人はもとより、空や木々やチャンスから。そういう事にちゃんと気づけるように(大きな愛によって)取り計られた環境だった、と考えたら、私はやり過ごしやすくなりました。
肉親とのいきちがいをのぞけば,愛はそこらにみちています。だから自分の愛は自分で探すしかないのでしょう。
子は,そばにいる限り、何かしら,親から傷を負うんじゃないですかね。ここまで個について干渉し過ぎな環境だとしかたないとおもいます。
投稿: な | 2008/02/23 22:43
>あるばれす
ああ、やはり、共通の悩みなんですね、コレ。なんか、いい方法はありませんかねー。私たちの親の世代は、子ども時代に戦争に傷つけられていますから、私はそれを思い出して「そちらもかわいそうですよね」と思う事にしています。
>な
「ここまで個について干渉し過ぎな環境だとしかたないとおもいます。」
なるほど。
個に干渉しては、私のことを既成の「型」に当てはめて、「欠陥品」あつかいするのはいい影加減やめたらどうか知らん。どうあっても、もう私もかわらないのにね。 JIS規格外品、修理不可能。(笑)
投稿: つる | 2008/02/24 09:40
中高時代より、今も教室でお世話になっている者です。
先日、初めてこのブログを拝見させていただきました(自分が最近ブログを始めたことで、ブログというツールに、ようやく視野が拓けてきまして)。
息子さんの一件、お父様との関わり、最近のいくつかの文章を読んで、特に息子さんのこと、どうしても堪えられなくて、ここに書きます。
私の母も、芸術の世界の人間です。母の場合、音楽ですし、伝統芸能特有の厳しさがありますが。
彼女は結婚する時、それまでいた弟子を手放し、稽古をやめ、殆どその世界から遠ざかって10年以上子育てに専念していました。けれども、ある日偶然フジコ・へミングさんのドキュメンタリーを観て、自分の生業をまた始めることを決意しました。
「また、始めてもいいかな」そう家族に言い、母はまた細々と弟子を取り、演奏活動を始めました。
母親の死、父親との決裂、姑らとの諍い。最近になってからは認知症となった実父と姑の介護や行政の手続きに追われる日々。母はそんな日々の中で、幾度も迷い、虚無感に苛まれていたようです。家族を犠牲にして演奏や稽古を続けること、犠牲にしつつも演奏に本腰を入れられないこと。
それでも、負けずに続けています。
娘から見て、「何を勝手な」と思うこともありました。けれど、自分の道を歩もうとする背中を、私は誇りに思います。
一方、父は父で、勤め人とは言い難い家業をしています。部下も上司も無く、たった独り、身体一つで生活を支えています。当然、稼ぎは少ない(笑)
私たち娘が、奨学金だの助成金だのと自主的に手続きをするのを、父は「金は無いが、書類ならいくらでも揃えられるぞぉ」と開き直り小鼻を膨らませます。そうは言っても、自分の稼ぎが充分でないことを、相当情けなく思っている。
この両親、放っとけばかなりわが道を行く人種です。親として子どもにできるのはまず、自分の生き様を見せることだと言わんばかりに。でも、それぞれが親としての自分に不足を感じながら、それぞれのやり方で愛してくれているのだなぁと最近とみに思います。自分の進路を考える時、この二人を思うと、「どんな道を選んでも大丈夫」そんなふうに思えます。
親は、子どもに情があればあるほど、どれだけやっても足りなく思ってしまうのかもしれません。けれど子どもは子どもで、どうすれば自分が足りていると伝えられるのかと煩悶します。良かれと思って学費を周旋することが、父を傷つけていたりするのですから。
わが家は、あーもぅほんとにウチの親は、と呆れられるくらいになりました(笑)。次は私が自立してゆく番です。そして、あなた方に育てられたからこその今の私だよ、と、胸張って精一杯伝えたい。
先生、あきらめないで下さい。
13歳の彼には、自分が母親を支えるには無力に思えてならないのかも知れません。それが歯がゆくて口惜しくて。
でも自分の大切にしていることを貫く姿は、子どもにとって相当心強いものです。今はまだ無理でも、いつかちゃんと届く時が来ます。
・・・私が言うことではないのですが。しかも支離滅裂で・・・。すみません。
投稿: もち | 2008/02/26 18:03
>もち
こんなに胸に沁みる手紙は、久しぶりです。
筆をとってくれた事に感謝します。
ほんとうにありがとう。
投稿: つる | 2008/02/28 13:22