「凛」のひと文字
「世の中にたえて桜のなかりせば、春のこころはのどけからまし」と業平さんは詠みましたが、咲くまでは、まだかまだかとそわそわし、咲いたら咲いたで、散るのが心配でおちおちしていられない・・・それが桜ですね。鎌倉界隈、満開です。
敬愛してやまない人間国宝の染織家・志村ふくみさんのエッセイに「一色一生」というのがあります。
ただひたすらに植物から色を授かって糸を染め、織り続けてきた志村さんの言葉は、何度読み返しても芯まで染みます。
その「一色一生」の中に、桜の木の皮を使った染めの話が出てきます。
そろそろ花を咲かせようか、という蕾をつけた木の皮を使って染色すると、まさに花のような桜色が出るといいます。それを志村さんは「まるで木全体が花の色を準備しているようだ」と読み解きます。
さすがに私のところでは、蕾をつけた桜の木から皮をとれる機会はないので、よく台風で折れた枝などを夏場や秋に染めますが、黄色み帯びたり、茶色っぽくなったりすることが多く、桜色が出ることは稀です。本当にその時期にだけ出る色なのかもしれません。
先日、その志村さんの新しいご本を手に入れました。「小裂帖」(こぎれちょう)。志村さんが染織を始められた50年近く前から、染めて織った布の端裂を貼りためておいた見本帳を、そのまま印刷し、本にしたものです。
特に解説はなく、ただ、淡々と整然と貼り並べられた、織り布の裂端。そこにはどんな雄弁な言葉よりもずっしりと迫ってくる言霊が宿っています。
志村さんの織りは、シンプルな平織りがほとんど。凝った技法の組織はまず見られません。「これでもか」というような細かい絣(かすり)も見当たりません。たて縞、よこ縞、格子縞の平織り。ただそれだけ。
ひたすら自然の声に耳をすませて色を「いただき」、その糸に身をゆだねるようにして杼(ひ)を入れた、無欲無私の世界です。
ところが、出来上がった作品は、一目で「あ、志村ふくみさんだ。」とわかるものなのです。
私たち戦後のナンチャッテ民主主義に染まった世代は、個性の確立だの、自分探しだのにやっきになって生きてきました。しかし、探し当てたはずの自分らしさは、所詮「演出された自分」でしかありません。志村さんのように、自分という存在を惜しげもなく自然にゆだねる行為は、私たちには怖くてできないような気がします。
しかし、ほんとうの個性とは、そうやって自分を潔く手放したときに出てくるものなのかもしれない、と、小裂のひとつひとつをたどりながら思いました。
散り際を称して「潔さ」の象徴のように言われる桜ですが、その咲きっぷりもまたしかりだと、この頃思います。志村さんのお仕事は、まさに桜の咲きっぷり。「凛」の一字がよく似合う、簡潔な美しさ。
いつかたどり着きたい境地です。
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