久留米絣(くるめがすり)
機(はた)に糸を掛ける前に予め糸を柄に合わせて染め分けた糸をつかった織物を「絣(かすり)」といいます。経糸を染め分けたものを「経絣」、緯糸を染め分けたものは「緯絣」、両方を用いたものを「経緯絣」といいます。
この技法は、遠くインドを発祥とし、それが東南アジア、インドネシアに伝わりました。いわゆる「イカット」と呼ばれるものがそれです。
(イカットとは、マレー語で「くくる」という意味)
それが琉球に伝わり、薩摩貿易によって九州に伝わり、千石船によって、各地の「風待ちの港」を経由して日本全国に伝わったと考えられています。
久留米絣は、四国の「伊予絣」、広島の「備後絣」と並んで「日本三大絣」の一つにあげられます。
現在は重要無形文化財に指定されています。
1800年ごろ、有馬藩の城下町であった久留米は、肥沃な筑後平野にありながら毎年暴風雨の被害が絶えず、思うように米の生産高が上がらない上、藩主の倹約令によって絹織物も思うように売りさばけないという社会状況下にありました。
そんな中、当時12歳だったという織物職人・井上伝という少女が、藍染の古着の白い斑点に興味を持ち、それを解きほぐしたことから絣の仕組みを会得したことに始まったといわれています。
その後、絵模様を描き出す絣の技法を編み出した大塚太蔵、隣接する国武村(福岡県八女市)の牛島能之(ノシ)が後に代表的な柄となる「小絣」を生み出すなど、久留米絣は、誕生から数十年で瞬く間に発展を遂げていきます。これには、 老中・水野忠邦が行った「天保の改革」によって奢侈禁止令が行き渡っていたことも逆に追い風となり、小洒落た木綿織物の久留米絣にみなが夢中になったという背景もありました。
絵絣の発展には、「東洋のエジソン」の名で知られる田中久重の協力も大きかったといわれます。
その後日本全国に広まったのは、明治10年の西南戦争で、各地から集まった軍人が土産に持ち帰ったことによるそうです。
本場久留米絣の定義は、
・本藍染めの木綿
・粗苧(アラソウ=表皮のついた麻の茎の繊維)を用いて糸をくくって絣を施す
・投げ杼による手織り
特色は、着れば着るほど肌に馴染む木綿のしなやかな肌触りと、洗えば洗うほど白場が浮き立つという染め。
実に戦後になるまで、長く日本人の普段着として愛されてきました。現在は機械で織られた手頃な価格のものもあり、気軽に楽しむことができます。
残したい、日本が誇る手仕事です。
◎参考サイト / 文献
・https://www.kimonoichiba.com/media/column/389/
・服飾辞典 文化出版局
・染め織りめぐり 木村孝 / 監修 JTB
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