教室の準備
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機織り仕事「障子のこちら側」、公開。
経糸を巻き取る作業の途中で、必ずしなければいけないのがこの「アゼ返し」。
アゼ棒(2本の竹の棒)と筬の位置を入れ替えます。
「何度説明されても、わかんなくなっちゃうぅぅ」と生徒さんに言われたので、アップしておきます。
ニン、ニン。
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葉山の古い工房から引き取ってきた絹糸を少しでも生かしたいと思い、
薄手の春夏向けのショールを織っています。
着物や帯に使われる細番手の紬糸が、独特の風合いを出してくれています。
カジュ祭でお目にかけます。

お客様のご注文で織った夏帯、制作風景。
大島に合わせたいので柑子色の無地を、というご希望。
ちょうどソメイヨシノの枝をいただいていたので、意気揚々と糸を
染めてみたところ・・・あれ! 黄色くなっちゃった!!
ソメイヨシノはヤマザクラよりは黄色みが強いですが、
普段なら琥珀色や柑子色、柿色などが染め上がるのに、
一体何が起こった!
慌ててサンゴジュを煮出して、赤い液を一晩寝かせて、3回色をかけて
ようやく狙った色に・・・ほっ。
いやいや、植物染色では色は「狙って」はいけないのです、ほんとうは。
織りの醍醐味は、遠目に「無地」に見えるよう、
異なる無数の色の糸を組み合わせて、その色をつくりだせるところ。
今回の帯も、経糸には20種類の糸を配しました。
すでに納品済み。お客様がお着物に締めて写真を送ってくださることになっています。
たのしみ。

機(はた)に糸を掛ける前に予め糸を柄に合わせて染め分けた糸をつかった織物を「絣(かすり)」といいます。経糸を染め分けたものを「経絣」、緯糸を染め分けたものは「緯絣」、両方を用いたものを「経緯絣」といいます。
この技法は、遠くインドを発祥とし、それが東南アジア、インドネシアに伝わりました。いわゆる「イカット」と呼ばれるものがそれです。
(イカットとは、マレー語で「くくる」という意味)
それが琉球に伝わり、薩摩貿易によって九州に伝わり、千石船によって、各地の「風待ちの港」を経由して日本全国に伝わったと考えられています。
久留米絣は、四国の「伊予絣」、広島の「備後絣」と並んで「日本三大絣」の一つにあげられます。
現在は重要無形文化財に指定されています。
1800年ごろ、有馬藩の城下町であった久留米は、肥沃な筑後平野にありながら毎年暴風雨の被害が絶えず、思うように米の生産高が上がらない上、藩主の倹約令によって絹織物も思うように売りさばけないという社会状況下にありました。
そんな中、当時12歳だったという織物職人・井上伝という少女が、藍染の古着の白い斑点に興味を持ち、それを解きほぐしたことから絣の仕組みを会得したことに始まったといわれています。
その後、絵模様を描き出す絣の技法を編み出した大塚太蔵、隣接する国武村(福岡県八女市)の牛島能之(ノシ)が後に代表的な柄となる「小絣」を生み出すなど、久留米絣は、誕生から数十年で瞬く間に発展を遂げていきます。これには、 老中・水野忠邦が行った「天保の改革」によって奢侈禁止令が行き渡っていたことも逆に追い風となり、小洒落た木綿織物の久留米絣にみなが夢中になったという背景もありました。
絵絣の発展には、「東洋のエジソン」の名で知られる田中久重の協力も大きかったといわれます。
その後日本全国に広まったのは、明治10年の西南戦争で、各地から集まった軍人が土産に持ち帰ったことによるそうです。
本場久留米絣の定義は、
・本藍染めの木綿
・粗苧(アラソウ=表皮のついた麻の茎の繊維)を用いて糸をくくって絣を施す
・投げ杼による手織り
特色は、着れば着るほど肌に馴染む木綿のしなやかな肌触りと、洗えば洗うほど白場が浮き立つという染め。
実に戦後になるまで、長く日本人の普段着として愛されてきました。現在は機械で織られた手頃な価格のものもあり、気軽に楽しむことができます。
残したい、日本が誇る手仕事です。

◎参考サイト / 文献
・https://www.kimonoichiba.com/media/column/389/
・服飾辞典 文化出版局
・染め織りめぐり 木村孝 / 監修 JTB

ご存知のように日本には伝統的な織りがいろいろあります。
その多くのルーツは沖縄に求められると言われています。沖縄には精巧な絣(かすり・糸を予め柄通りに染め分けて織る技法)のほか、花織り、道屯(ロートン)織りなどの糸を意図的に( シャレぢゃないから! )飛ばす変化織りもたくさんあります。
でも、よーく探ってみるとないんですよ、ある織りが。江戸時代までの日本の織りには。
明治に入ってから日本の織りものに、ある大きな変化が現れました。
それまでの日本の織りは「平織り」、いわゆる経糸と緯糸が一本おきにしっかり織り合わさる織り方が基本でした。どんな複雑な変化織りもベースになっているのは平織りです。通気性がよく伸びの少ない平織りは、高温多湿の日本の気候と、和服という民族衣装の着こなしには最適でした。
この、四角い布をただ巻きつけるだけの和服を軸に、日本人は立ち居振る舞い、武芸や諸々の作法の伝統を築いてきたのです。
そのため江戸時代までの日本人の躰の使い方には、躰を「斜めに伸ばす」あるいは「ひねる」という動きがほとんどありません。
歩き方の基本は「ナンバ」。つまり、右手と右足、左手と左足と、同じ側の手足が前に出る型が定着していたのです。これは朝鮮にも中国にも見られない体の運びだそうです。(写真右端)
そこへ西欧からウール(羊毛)という新しい繊維と洋装が入ってきたことで、それまでの平織りにかわり「綾織り」が一般的に広まったのです。
綾織りは、経糸が二本ないし三本飛びながら斜めに斜文を描き出す織りで、同じ密度の平織りより地厚で丈夫、しかも斜めの伸びがよいのが特徴です。
この斜めの伸びのよさは、躰の曲線に合わせて布を裁断し立体的に縫い上げる洋服づくりには不可欠。躰に沿う美しい曲線を出すには平織りより綾織りの布が適しているのです。
男性の急速な洋装化と官服の需要により、明治から大正期には日本でも盛んに綾織りの広幅服地が機械生産されるようになりました。
それと時を同じくしてドイツから西欧式の軍事教練が導入され、日本人の躰の使い方にもいよいよ「ひねり」が入ってきます。
それまでのナンバ歩きから、両手を交互に大きく振りながら躰をひねって歩く現在の歩き方と走り方が除々に定着し(写真左端)、古武道に見られるような身のこなしは、次第に姿を消していったのです。
江戸時代までは当たり前だったこのナンバ歩き。近年、日本で見直す風潮が生まれています。陸上スポーツ界では、ナンバを取り入れたトレーニングでエネルギーロスを解消しタイムアップに繋がったという報告も。また、小笠原流作法、茶道、各種武道でもナンバが基本で、これを身につけることで、身体の歪みが解消され、腰痛、頭痛、内臓疾患の改善につながっているそうです。
現在の私たちの衣料生活は、夏物以外はほとんど綾織りが主流になっていますが、キモノ(平織り)を着る時間を持つことで、古来日本人の頑健な身体と美しい身のこなしを取り戻せるかもしれませんね。

「縮(ちぢみ)」とは、糸に強い縒りを入れて織った織物のことで、その強い縒りが布を縮ませることからこの名があります。和漢三才図会にも「衣がちぢんでのびないのを縮という。越後の小千谷で生産されるものを上とする。」という記述が見つかります。
江戸時代初期、播州明石(やはり縮の産地)から来たといわれている堀次郎将俊が、それまでの越後麻布に改良を加えて完成したのが小千谷縮です。
しぼのある独特の風合いで高い評価を得、昭和30年(西暦1955年)、国の重要無形文化財に指定されています。その技法を生かして織り始めたという小千谷紬も、昭和50年(西暦1975年)に伝統的工芸品に指定されています。
小千谷縮の材料は苧麻(ちょま)という上質の麻です。これで織られた織物を「上布(じょうふ」といいます。小千谷縮も「越後上布」のひとつなのです。
上布は苧麻の茎からとった繊維をを細かく砕いてつなぎ合わせ、一本の長い糸を作ります。
準備された経糸(たていと)に、模様付けされた緯糸(よこいと)一本一本柄を合わせながら丹念に織ります。一尺織るのに900回も手を動かすといいます。
この苧麻、上不の産地ではもちろん、そのために育てた苧麻が使われていますが、実は私たちの身近なところによく生えています。
鎌倉でも春頃からにょきにょきと現れ、夏の空き地に君臨します。
織り上げられた反物は、地を白くするために雪の上でさらされ、完成します。なぜ雪に晒すと生地が白くなるかはよくわかっていませんが、どうやらオゾンが関係しているらしいです。
この雪ざらしは、小千谷に春を呼ぶ風物詩だそうです。

◎参考サイト / 文献
・https://ja.wikipedia.org/wiki/小千谷縮
・https://www.city.ojiya.niigata.jp/site/kanko/ojiyachijimi.html
・服飾辞典 文化出版局
・和漢三才図会 第27巻 寺島良安/著
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