つるの機織り道(織)

2022/04/15

夏帯「桜蔭」

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お客様のご注文で織った夏帯、制作風景。

大島に合わせたいので柑子色の無地を、というご希望。
ちょうどソメイヨシノの枝をいただいていたので、意気揚々と糸を
染めてみたところ・・・あれ! 黄色くなっちゃった!!

ソメイヨシノはヤマザクラよりは黄色みが強いですが、
普段なら琥珀色や柑子色、柿色などが染め上がるのに、
一体何が起こった!

慌ててサンゴジュを煮出して、赤い液を一晩寝かせて、3回色をかけて
ようやく狙った色に・・・ほっ。

いやいや、植物染色では色は「狙って」はいけないのです、ほんとうは。

織りの醍醐味は、遠目に「無地」に見えるよう、
異なる無数の色の糸を組み合わせて、その色をつくりだせるところ。

今回の帯も、経糸には20種類の糸を配しました。

すでに納品済み。お客様がお着物に締めて写真を送ってくださることになっています。
たのしみ。



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2021/07/31

久留米絣(くるめがすり)

 

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機(はた)に糸を掛ける前に予め糸を柄に合わせて染め分けた糸をつかった織物を「絣(かすり)」といいます。経糸を染め分けたものを「経絣」、緯糸を染め分けたものは「緯絣」、両方を用いたものを「経緯絣」といいます。

この技法は、遠くインドを発祥とし、それが東南アジア、インドネシアに伝わりました。いわゆる「イカット」と呼ばれるものがそれです。
(イカットとは、マレー語で「くくる」という意味)

それが琉球に伝わり、薩摩貿易によって九州に伝わり、千石船によって、各地の「風待ちの港」を経由して日本全国に伝わったと考えられています。

久留米絣は、四国の「伊予絣」、広島の「備後絣」と並んで「日本三大絣」の一つにあげられます。
現在は重要無形文化財に指定されています。

1800年ごろ、有馬藩の城下町であった久留米は、肥沃な筑後平野にありながら毎年暴風雨の被害が絶えず、思うように米の生産高が上がらない上、藩主の倹約令によって絹織物も思うように売りさばけないという社会状況下にありました。

そんな中、当時12歳だったという織物職人・井上伝という少女が、藍染の古着の白い斑点に興味を持ち、それを解きほぐしたことから絣の仕組みを会得したことに始まったといわれています。
その後、絵模様を描き出す絣の技法を編み出した大塚太蔵、隣接する国武村(福岡県八女市)の牛島能之(ノシ)が後に代表的な柄となる「小絣」を生み出すなど、久留米絣は、誕生から数十年で瞬く間に発展を遂げていきます。これには、 老中・水野忠邦が行った「天保の改革」によって奢侈禁止令が行き渡っていたことも逆に追い風となり、小洒落た木綿織物の久留米絣にみなが夢中になったという背景もありました。

絵絣の発展には、「東洋のエジソン」の名で知られる田中久重の協力も大きかったといわれます。

その後日本全国に広まったのは、明治10年の西南戦争で、各地から集まった軍人が土産に持ち帰ったことによるそうです。

本場久留米絣の定義は、

・本藍染めの木綿
・粗苧(アラソウ=表皮のついた麻の茎の繊維)を用いて糸をくくって絣を施す
・投げ杼による手織り

特色は、着れば着るほど肌に馴染む木綿のしなやかな肌触りと、洗えば洗うほど白場が浮き立つという染め。

実に戦後になるまで、長く日本人の普段着として愛されてきました。現在は機械で織られた手頃な価格のものもあり、気軽に楽しむことができます。

残したい、日本が誇る手仕事です。



◎参考サイト / 文献
https://www.kimonoichiba.com/media/column/389/

・服飾辞典  文化出版局
・染め織りめぐり 木村孝 / 監修 JTB

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2021/04/24

平織りが支えたナンバ歩き

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 ご存知のように日本には伝統的な織りがいろいろあります。

 その多くのルーツは沖縄に求められると言われています。沖縄には精巧な絣(かすり・糸を予め柄通りに染め分けて織る技法)のほか、花織り、道屯(ロートン)織りなどの糸を意図的に( シャレぢゃないから! )飛ばす変化織りもたくさんあります。 
 でも、よーく探ってみるとないんですよ、ある織りが。江戸時代までの日本の織りには。

 明治に入ってから日本の織りものに、ある大きな変化が現れました。
 それまでの日本の織りは「平織り」、いわゆる経糸と緯糸が一本おきにしっかり織り合わさる織り方が基本でした。どんな複雑な変化織りもベースになっているのは平織りです。通気性がよく伸びの少ない平織りは、高温多湿の日本の気候と、和服という民族衣装の着こなしには最適でした。

 この、四角い布をただ巻きつけるだけの和服を軸に、日本人は立ち居振る舞い、武芸や諸々の作法の伝統を築いてきたのです。
 そのため江戸時代までの日本人の躰の使い方には、躰を「斜めに伸ばす」あるいは「ひねる」という動きがほとんどありません。
歩き方の基本は「ナンバ」。つまり、右手と右足、左手と左足と、同じ側の手足が前に出る型が定着していたのです。これは朝鮮にも中国にも見られない体の運びだそうです。(写真右端)

 そこへ西欧からウール(羊毛)という新しい繊維と洋装が入ってきたことで、それまでの平織りにかわり「綾織り」が一般的に広まったのです。
 綾織りは、経糸が二本ないし三本飛びながら斜めに斜文を描き出す織りで、同じ密度の平織りより地厚で丈夫、しかも斜めの伸びがよいのが特徴です。
 この斜めの伸びのよさは、躰の曲線に合わせて布を裁断し立体的に縫い上げる洋服づくりには不可欠。躰に沿う美しい曲線を出すには平織りより綾織りの布が適しているのです。
 男性の急速な洋装化と官服の需要により、明治から大正期には日本でも盛んに綾織りの広幅服地が機械生産されるようになりました。
 
 それと時を同じくしてドイツから西欧式の軍事教練が導入され、日本人の躰の使い方にもいよいよ「ひねり」が入ってきます。
 それまでのナンバ歩きから、両手を交互に大きく振りながら躰をひねって歩く現在の歩き方と走り方が除々に定着し(写真左端)、古武道に見られるような身のこなしは、次第に姿を消していったのです。

 江戸時代までは当たり前だったこのナンバ歩き。近年、日本で見直す風潮が生まれています。陸上スポーツ界では、ナンバを取り入れたトレーニングでエネルギーロスを解消しタイムアップに繋がったという報告も。また、小笠原流作法、茶道、各種武道でもナンバが基本で、これを身につけることで、身体の歪みが解消され、腰痛、頭痛、内臓疾患の改善につながっているそうです。

 現在の私たちの衣料生活は、夏物以外はほとんど綾織りが主流になっていますが、キモノ(平織り)を着る時間を持つことで、古来日本人の頑健な身体と美しい身のこなしを取り戻せるかもしれませんね。


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2021/04/11

小千谷縮

 

Ojiya02 Ojiya013964(右端・写真出典)


「縮(ちぢみ)」とは、糸に強い縒りを入れて織った織物のことで、その強い縒りが布を縮ませることからこの名があります。和漢三才図会にも「衣がちぢんでのびないのを縮という。越後の小千谷で生産されるものを上とする。」という記述が見つかります。

江戸時代初期、播州明石(やはり縮の産地)から来たといわれている堀次郎将俊が、それまでの越後麻布に改良を加えて完成したのが小千谷縮です。
しぼのある独特の風合いで高い評価を得、昭和30年(西暦1955年)、国の重要無形文化財に指定されています。その技法を生かして織り始めたという小千谷紬も、昭和50年(西暦1975年)に伝統的工芸品に指定されています。

小千谷縮の材料は苧麻(ちょま)という上質の麻です。これで織られた織物を「上布(じょうふ」といいます。小千谷縮も「越後上布」のひとつなのです。
上布は苧麻の茎からとった繊維をを細かく砕いてつなぎ合わせ、一本の長い糸を作ります。
準備された経糸(たていと)に、模様付けされた緯糸(よこいと)一本一本柄を合わせながら丹念に織ります。一尺織るのに900回も手を動かすといいます。

この苧麻、上不の産地ではもちろん、そのために育てた苧麻が使われていますが、実は私たちの身近なところによく生えています。
鎌倉でも春頃からにょきにょきと現れ、夏の空き地に君臨します。

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織り上げられた反物は、地を白くするために雪の上でさらされ、完成します。なぜ雪に晒すと生地が白くなるかはよくわかっていませんが、どうやらオゾンが関係しているらしいです。
この雪ざらしは、小千谷に春を呼ぶ風物詩だそうです。



◎参考サイト / 文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/小千谷縮
https://www.city.ojiya.niigata.jp/site/kanko/ojiyachijimi.html

・服飾辞典  文化出版局
・和漢三才図会 第27巻   寺島良安/著

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結城紬

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茨城県結城市を中心に生産される紬織物(つむぎおりもの)。全国に様々な伝統工芸としての紬があります。

紬とは、緯糸に真綿(生糸にならなかった繭糸を角真綿、または綿帽子の形にしたもの)を手で引き出しながら縒りをかけた糸を使って織ったものをいいます。その緯糸に紡ぎならではの節があることから独特の風合いがあります。
現在では手紡ぎの糸は高くついてしまうため、化繊や木綿、毛などの節のある糸をつかってざっくりした風合いに織り上げたものを総称して「紬」と呼んでいます。

結城の地の紬織りの歴史は古く、伝承によれば、崇神天皇の時代に、多屋命(おおやのみこと)という人物が、三野(美濃)の国から結城に近い常陸国久慈郡に移り住み、長幡部絁(ながはたべのあしぎぬ)と呼ばれる織物を始めたそうです。絁(あしぎぬ)とは太い絹糸で織った粗布のことで、
それが結城地方に伝わり結城紬となったとされますが、定かではありません。
少なくとも、鎌倉時代にこの地を支配していた結城氏が幕府に「常陸紬」として献上していたことは事実で、それが結城紬となりました。

元々この地方では養蚕が盛んで、農閑期に副業として紬が作られたのが創始とされています。かつて鬼怒川は「絹川」と呼ばれており、生産中心集落の一つである小森は「蚕守」と表記された時代もあるなど、結城地方では養蚕にまつわる地名が多く見られました。

江戸時代初期に信州上田より織工を招いてより質が向上し、知名度も上がってゆきました。江戸の中頃には、本家・上田を抑えて「常州の結城の産が上とし、信州のものがこれに続く」と和漢三才図会にも記述が見当たります。

通常の紬が緯糸にのみ紬糸を使うのに対し、結城の紬は経糸にも紬糸を使っているのが特徴です。
糸に予めくくりを施して模様に染め上げから織る「絣(かすり)」が結城紬に取り入れられたのは幕末のことで、これが1873年にウィーン万国博覧会に出品され、世界的に名を知られるきっかけとなりました。

もともとはシャリ感のある太糸の風合いが結城紬の特徴でしたが、現在では製糸技術の向上で糸が細くなり、むしろ「軽くてやわらかい」と云われることが多いそうです。


◎参考サイト / 文献
https://ja.wikipedia.org/wiki/結城紬
・服飾辞典  文化出版局
・和漢三才図会 第27巻   寺島良安/著

 

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2020/04/29

動画「水脈」によせて

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前代未聞の新型コロナウィルス禍。人類はその歴史上初めて、全世界共通のテーマに取り組んでいます。

主催している鎌倉路地フェスタが中止になり、そして、23年間一度も休んだことのないカジュ祭も中止になりました。
こんなに穏やかな4月を過ごすのは23年ぶりです。
工房のあるカジュ・アート・スペースの守護神イロハカエデには今、新緑の葉が満々とたたえられ、今年は独り占めしています。
せっかくなので、制作と畑仕事三昧。贅沢な時間を過ごしています。

カジュ祭で年に一度会えるミュージシャンたちとも、楽しいランデブーはしばらくお預けですが、さすがはミュージシャンたち。
オンラインを駆使して、人々に元気や勇気や癒やしを届ける活動を積極的に行っています。みんな、すごい!
それを見るにつけ、美術系のアタシ、音楽の持つ力にちょっと嫉妬を覚えたりして。(笑)

そんな活動も著しい、アコーディオン奏者・岩城里江子さん。(カジュ祭でも人気No.1!)
彼女の2枚目のアルバム「水脈」のタイトル曲は、深淵たる樹海の岩清水を思わせる清涼感のある名曲です。

岩城さんがこのたび、その楽曲の楽譜を公開し、いろんなミュージシャンの方に「それぞれの水脈」を披露してもらう、という企画を立ち上げました。例えば、
小林徹也さん(ギタリスト) の「水脈」

小西雅子さん(沖縄三味線/歌)の「水脈」

他にもたくさん、素敵な水脈があります。

それを横目で見ていた染織家のアタシ。こういうアクションができる音楽の人たちが羨ましくて、「水脈」の帯を織ってみました!
演奏は岩城さんご自身です。動画は息子が作ってくれました。
機織り仕事の様子、楽しんでいただければ幸いです。

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◎岩城里江子  HP

◎たなか牧子  HP

 

 

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2019/08/04

八寸帯 「水夢想」のこと

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工房の北側の敷地は、23年前の開設当初は篠竹、黒竹、四方竹の竹やぶでした。そこにカキノキだのネズミモチだのが埋もれていて、その木も、竹やぶに埋もれる一本でした。

少し見上げる程度の若いその木には、春先からしゃわしゃわと軽やかな葉っぱが生えてきて、夏には小紫の涼し気な花がついて、秋にはビー玉大の黄色い実がたわわにつきます。調べてわかった名前はセンダンでした。わざわざ植えたのではなく、鳥が運んだ種が芽吹いて育ったようです。

葉が落ちた後も木に残る、そのたわわな実のさまが、数珠のようであることから 「センダマ」(千珠)といわれ、これが転じてセンダンの名となったという説や、実の多くついた様子を「千団子」に見たてたという説などがあるそうです。

材は細工がしやすく、建築用装飾、家具、木魚、下駄などに用いられるとか。アウチの名で万葉集にも詠まれています。

よく、「センダンは双葉よりかんばし」というので「どれどれ」と顔を寄せて匂いを嗅いでみましたが、確かにすっきりした蒼々しい香りはするものの、別段芳香というわけではないような・・・。調べてみると、この場合のセンダンとは東インド、マレーシアの原産ビャクダン科の栴檀(せんだん)で全くの別人でありました。

実は「苦楝子(くれんし)」という生薬にもなり、整腸、鎮痛薬として腹痛や疝痛(せんつう)には、煎じて服用。木の皮を乾燥させた「苦楝皮(くれんぴ)」は、虫下しになるそうです。

竹やぶはこの23年の間に少しずつ刈って、今では敷地の境界線の塀周りだけになり、畑も藍染のスペースもできました。センダンは竹の勢いが治まると気を良くしてすくすくと育ってゆき、ついには直径40cm、高さ12m程の巨木なりました。8年ほど前、春先の枝葉をアルカリ抽出して染めてみたら黄緑色が染まって、以来、春から夏にかけて折々糸を染めていました。

ところが、ある年から急に新芽が出なくなりました。「あれ?おかしいな。」よくみたら樹皮の様子もなんか、いつもと違う。妙にツルツルしているぞ。

庭師・大島親方にみてもらったら、「この木はもうだめですね。」・・・え?

原因はタイワンリス。
歯を研ぐためにセンダンの樹皮をぐるりとかじってしまったのです。木は、水を吸い上げる管が皮の内側にあるのだそうで、幹の一部の皮を剥がれたぐらいなら、いくらでも再生するそうですが、ぐるりと一周かじられてしまうと給水経路を絶たれてしまい、もう助からないのだそうです。コンチクショウ、憎たらしいタイワンリスめ! あ、樹皮は虫下しの生薬だった。うーん、ここまで敵のようにかじったのは、腹具合でも悪かったからなのか?
木はどんどん立ち枯れ状態になり、高いところの枝が次々と折れて落ちてくるように・・・。風で倒れると危ないので、決心して親方に大きな枝と幹の一部を切り落としてもらいました。

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もう、あの夏の涼し気な花は見られないのかぁ、かわいい実も集められないのかぁ。

ところが翌年の春、残った幹の先から小さな若い蘖(ひこばえ)が出ているではありませんか! 枝や幹を切ったことが刺激になったらしく、死にかけたセンダンの命に火がついたようです。みるみる瑞々しい枝葉を取り戻し、命は静かに、でも力強く蘇りました。起死回生の4文字は、まさにこの様を表しているのだと思いました。

少し取っても大丈夫そうなくらい緑の枝葉が生え揃ったので、久しぶりにこの夏、染めてみました。
アルカリ水で煮出した染液の色は、今まで見たことのない、キラキラした青春の輝きと、再び水を蓄えた喜びに満ちた青々しい翡翠色!
麻糸を浸すと、透明感そのままに、すうっと、翡翠色は糸に移ってゆきました。

クサギで染めたちょっとヲトナな緑の糸や、ナンテンの銀色、化学染のスカイブルーの糸などにも加わってもらって、8寸の単衣帯に織り上げてみました。
身につけている人にも、それを見た人にも、涼を感じてもらえますように、気持ちの滞りをすっと流してくれますように、そんな願いを込めて。

昨日、伊と彦さんに納品しました。お手にとってご覧いただき、復活のセンダンの命を感じていただければ幸甚です。

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2019/07/19

袱紗のこと

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裏千家のお茶の先生に、出袱紗を織ってほしいとご依頼を受けて、勉強をはじめました。

流派によっていろいろサイズがあるようですが、これといった約束事はない模様。
袱紗とも帛紗とも綴ります。「帛」は絹の布を指すようなので、他の素材ではだめなのかしら?「うーん、そんなことないと思うけど・・・」と先生。そっか。
お茶碗がひきたつ、おもてなしの心が伝わる、場を超えない・・・がポイントでしょうか。あとは季節感ですね。

縫い目を見せない「かぶせ」に仕上げるのは、袱紗を長持ちさせる知恵なんでしょうね。

小笠原流のお作法の本を繙いて感じたのは、日本のお作法の基本は、
・人への気遣い
・体の機能に無理をさせない
・モノが長持ちするように扱う
の3つに集約されるということ。(私感です、あくまで。)

お茶にはそんな心がぎゅっと詰まっているのだろうな。

そんなことを想像しつつ、袱紗用の布、あれこれ織っています。

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2019/07/18

帯「十三年だより」のこと

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ここ2,3年は、やっと時間的余裕が少しできてきたので、自宅と工房のモノの整理に取り組んでいます。
テーマは「死蔵品に活(喝?)をいれる」。活かせると思うものだけ残す。手元にあるものは活かしきる。・・・でモノとあらためて向き合ってみると、タンスの肥やしが日の目を見て結構ワクワクいたします。

工房の材料棚にも、忘れられた布だの糸だのが、かなりひねくれた様子でしまわれていました。
その中に、正体不明の整経した経糸が。「なんじゃ、こりゃ。」

整経とは、計画に従って、糸の長さ、密度を決め、必要な本数を機にかけられるよう準備することをいいます。ほとんど色らしい色のない、至極ナチュラルな糸の束。測ってみたら6m強あります。ただ、幅が皆目検討がつかない・・・。「一体、なにを織る気でいたんだろう、アタシ。」

ここでもう一度しまってしまったら、死蔵品が増えるだけだ、と一念発起し、とりあえず、幅がどのくらいあるか確かめるために、いつも自分がよく使っている25羽/クジラ筬(おさ・糸の密度を決める竹のクシ)に粗筬通ししてみました。

すると、25羽丸羽通しでぴったり8寸。ここへ来て、私の頭の片隅から古い記憶が蘇った! 「そうだ、これは!」

次の日。いつも私が織った帯を商ってくださる扇ガ谷の伊と彦さんに伺ったら、女将から注文をいただきました。「仕立てをして締める薄い帯を織ってくれますか。」夏に使える、涼し気なスケスケした帯か・・・今までのは、緯糸に太い麻をいれて、そのまま一重で使える厚めのざっくり帯が多かったので、うん、面白そうだ、やってみよう、とお引き受けしました。

工房に帰ってきてから、粗筬通しされた謎の整経をみて、これは運命だ、とあらためて思いました。

謎の整経は、2006年に開いた個展のために準備した、3本の帯のうちの1本だったのです。
その年は、ガンを患った母が、いよいよ体調を崩し、やはりガンを患った父が介護にあたっていて、それを横目に見ながら、自宅と行き来して掃除だの食事の支度だの、病院への送り迎えなどをしていた頃でした。息子は翌年から中学生という年齢。日に日に弱るおばあちゃんを見るのがよほど辛かったのでしょう、この頃から家で荒れるようになってきました。稼がにゃならんので私も正直、ぱつんぱつん。それでも、展覧会だけはどんな言い訳も持ち込めないので、徹夜で(いまはできん!)せっせと商品を作っておりました。3本織るつもりだった帯・・・でもどうやっても初日に間に合わない。しょうがない、1本諦めよう。

当時の物事の優先順位を考えれば、その決断は正しかったのでしょう。ですが、「女なんだから、こういうときは仕事は犠牲にして当たり前でしょ」」という暗黙の圧力に負け、プロの看板を上げた作家として一番手を抜いてはいけない仕事をひとつ端折ったという、どうにも始末のつかない感情に苛まれ、自己嫌悪になり、しかも、どこにもその気持を持っていけないという状況に追い込まれました。「なかったことにしよう」・・・どこかで私はそう思ったのです。だからすぐには思い出せなかった。

そんな過去のやりきれない思いの遺物に、とびきり粋な京女将が、新しい命を吹き込もうとしてくれている! もう、そうとしか思えず、頂いたご注文にはこの経糸を使おうと決めました。

女将のご注文は、未晒の麻のようなナチュラルな色合いで、色模様は殆どないもの、とのこと。この経糸はまさにそんな感じです。データをたぐってみたら、ナンテン、アジサイ、クマザサ、ニワウルシ、マキ、などで柔らかな色に染め上げた糸たち。しかも、縞が出ないよう、不規則に糸の順番を入れ替えた整経です。これを、仕立てることを見越して9寸に広げなければいけません。そこで、模紗織(もさおり)という、レース模様のように穴があく計画に変更してみました。

緯糸は、生徒さんが新潟の畑で育てたセイヨウオトギリソウで染めたフレンチリネンと、これまたご厚意でいただいたティートゥリーで染めたシルクを使いました。

その翌年の暮れ、母が他界、続いて1年半後に父も他界。今は息子も独立。好きなことを見つけたようで、元気にやっています。

あのとき、無理矢理に蓋をしてしまった負の感情が、13年たって、周りの人の愛情と植物たちの力のおかげで解き放たれて、気持ちがすれ違ったまま逝ってしまった両親にも、「おかげさまでアタシ、たいへんたのしくやってますよ」と彼岸に手紙を送ったような気持ちになりました。

女将がどんなお着物に合わせてくださるのか、とても楽しみです。 
感謝にかえて。

 

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2019/06/20

さくら帯

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今年の3月、北鎌倉コットンのまりみさんからメールが来ました。

「ソメイヨシノを伐ったんですが、染料に枝、いりませんか?」ご自宅の改築のため、どうしても伐らなければならなかったその大木には、今にも咲くかという蕾が、びっしりとついているという。

そんな時期の桜の枝が手に入ることなど、千載一遇のことなので、「ぜひ、いただきたい。」とお返事しました。

明くる日、自転車に信じられないほどのたくさんの枝を積んで、まりみさんが工房にやってきました。(ありがとう!)「まだあるんです。使われるようならおっしゃってください。」と言ってくれました。まりみさんにしても、本当は切りたくなかった木、少しでも命をつなぎたい気持ちが伝わってきます。これは責任重大だ。

染織家・志村ふくみさんの「一色一生」に、「開花前夜の桜の枝で糸を染めると、まさしく桜色が染まった。」という記述があります。これを志村さんは「まるで桜の木が全身で花の色を準備していたようだ」と読み解いています。

工房でもサクラの染色は折々やっていますが、花の時期の枝はそうそう手に入るものではありません。だいたい、夏の終わり頃に市が剪定する桜並木の枝などを頂いてくることが多い。
そのころの色は、銅かアルミの媒染で櫨色香染など、茶味が強い色合いになりやすく、特にソメイヨシノは、八重桜や山桜と違って、黄色味が強く上がることが多いのです。

しかし、いただいたソメイヨシノは、そのまま花瓶に活けたら、翌日には花が咲きそうな、みずみずしい蕾がたわわについていて、枝全体も、心なしか赤みがさしているように見えます。これは今までのソメイヨシノと違う・・・。

説明できない「ざわつき」が、胸の奥に沸いてきて、「これはすぐ煮出さなればいけない」、直感的にそう思いました。

さっそく、荒切りしてある枝をさらに細かく切って、鍋にたっぷりはった水の中に。そこでふと、余すことなく色を取り出したいと思い、アルカリ水で抽出してみようと思いたち、水に重曹を加えることに。で、点火。

他の仕事をしながらコトコトと半日煮出し、鍋を覗いて息を呑んだ。

染液が、深いボルドーワインのような色になっていたのです。

その色には、ただ「美しい」では片付けられない「なにか」が確かに宿っていました。まさに咲こうかという時期に、幹から倒された木の、口惜しさとも、情念とも思える「業」のようなものが。

恐る恐る、下処理した太番手のリネンの糸をその業のるつぼに浸してみると、色はまたたく間に糸に移っていきました。火をとめてしばらく浸したあとに銅で媒染し、ふたたび液に浸して一晩浸け置くことに。

翌朝、鍋の蓋を取ると、染液にはほとんど色は残っておらず、かすかに薄黄色の透明になっていました。糸は、そのサクラのすべてを吸い尽くし、少し茶味の葡萄酒色に上がりました。

干した糸を眺めて、頭を抱えてしまった・・・。「この先、どーすりゃいいんだ」。それまでなんとなく頭の中で描いていた織りの計画は、もろくも糸の迫力に吹き飛ばされてしまい、真っ白になってしまいました。

2ヶ月が過ぎ、3ヶ月が過ぎた頃。糸の色は少し落ち着いてきましたが、いまだ深い業にもがいている糸に、なんとか「安住の地」をみつけてあげようという気にやっとなり、経糸を準備にとりかかりました。

着物の世界では季節を意識した装いが約束で、草花をモチーフにした柄の場合、その開花期を少し先取りするのが習わしです。ですが、サクラだけは、全面に花があしらわれているようなデザインに限っては、通年着ることができます。つまりいつでも咲かせられる。「これでいこう。」

この春、咲かせることが叶わなかったソメイヨシノに、いつでも咲いていられるような「安住の地」を作ってあげよう。柄は大きくせず、遠目には無地に見え、どんな着物とも合わせられて、一年を通して使ってもらえる帯にしてみよう。

経糸は普段染めためてある綿、麻、絹の中から、サクラの糸の荒ぶりを受け止めて抑えてくれそうなものを主に選び、その強さと遊んでくれそうな水色や青をアクセントに整経しました。

そこからははやかった。普段8寸帯は、機に糸がかかってから、2〜4日で織り上げているのですが、このときは、なんと1日で織り上がってしまったのです。決して、根性を出して無理をしたわけではなく、ただただ、杼を投げただけだったのに・・・。織っている間、ずっと「鎮まれ、鎮まれ」と祈っていました。

経糸たちが慰めになってくれたようで、織り上がった帯はやさしい仕上がりになったと思うのですが、いかがでしょうか。

そんな、サクラの気持ちを受け止めてくださる方に、しめていただければ幸甚です。

 

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